No.29 徳川家康

更新日:2025年05月03日

船子八幡神社

船子八幡神社 バス停「船子」下車徒歩3分

徳川家康(天文11年(1543)12月26日(→1543年2月10日)~元和2年(1616)4月17日(→1616年6月1日))は、戦国時代から江戸時代初期の戦国大名であり、江戸幕府初代将軍です。岡崎城主であった松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれました。織田家と今川家で人質となっていましたが、永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元が亡くなったのを機に領主として独立し、織田信長と同盟を結んでいます。本能寺の変の後も三河の周辺の国々の支配を進めていきましたが、豊臣秀吉が政権を取ると秀吉に従うことを大坂城で表明し家臣となりました。家康は北条氏と縁戚関係にあることから北条氏に秀吉の家臣となることを進言し仲介しましたが、上手くいかずに天正18年(1590)小田原征伐において豊臣軍として北条氏と戦うこととなってしまいました。

北条氏敗北後、秀吉の命令を受け関八州を治めるため江戸城に入りました。統治に当たっては、旧北条氏の政策を踏襲しました。また、天正19年(1591)11月関東一円の寺院に寄進をする旨の朱印状を発給していますが、その内の1通が船子八幡神社に残っています。

その後慶長5年(1600)関ヶ原合戦で西軍を破り支配権を全国的に広げ、慶長8年(1603)征夷大将軍となりました。嫡男の秀忠への将軍職を譲った後も大御所として駿府において朝廷と関係を担っていました。

あつぎとの関係としては、家康は、中原御殿(現在の平塚市)を造営し度々訪れていたが、そこでの鷹狩の際に厚木宿の溝呂木家で休憩をしています。溝呂木家では、御仮屋を作り家康にお茶を振舞っています。現在も溝呂木家には、お茶を出す時に使用した茶臼が伝えられています。また後年、溝呂木家では、御仮屋を壊し東照宮を勧請しています。

また、家康が鷹狩に来ていた時ちょうど豪雨で相模川の水かさが増していました。その際に家康がこの流れを横切って向こう岸(現在の海老名市側)まで泳げるものはいないかと問いかけました。家臣は誰も名乗り出ませんでしたが、厚木宿の溝呂木家の船頭が1人名乗り出て無事に泳ぎ切りました。家康はたいそう喜んでその船頭に「鴨之助」という名を与えたとの伝承も地域に残っています。同様の話は、『相中留恩記略』にも記されています。

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