No.55 板垣退助

更新日:2025年06月07日

清源寺

清源院 バス停「清源院前」下車徒歩3分

板垣退助(天保8年(1837)~大正8年(1919))は、東アジアで初となる帝国議会の樹立を目指した人物です。近年では「国会を創った男」とも評されています。

土佐藩(現在の高知県)に武士の子として生まれ、藩主山内豊信の側用人などをつとめましたが、藩が掲げる公武合体論と相容れず、幕末の動乱期において武力で幕府を倒す討幕の考えに同調し、西郷隆盛らと行動を共にしました。戊辰戦争では、土佐藩兵を率いて宇都宮、会津の攻略で活躍しました。明治新政府が樹立すると要職を歴任し、廃藩置県を断行するなどしましたが、征韓論が反対されたことに不満を持ち、政府を去り、国会開設を求めて自由民権運動を展開しました。

明治16年(1883)7月、板垣は、愛甲郡の自由党員の招きに応じて厚木を訪れます。20日に到着し、21日に相模川で遊船会を楽しんだ後、22日に三田・清源院で板垣らの演説が行われました。この時、清源院に集まった聴衆は、「自由新聞で400人、小宮保次郎の日記では約800人と記されています。有名な「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、厚木遊説の前年、明治15年4月に岐阜金華山山麓での出来事です。

三田・清源院での演説は数百人にも及ぶ聴衆が参加しましたが、その1年3ヶ月後の明治17年(1884)10月、自由党は解党しました。松方デフレによる不況の中、急進左派が過激な行動に出ることが多くなったためです。

板垣が数百人を前に演説をした三田・清源院は、清源院前バス停から徒歩3分です。板垣は、半熟卵と鮎の塩焼きが大好物で、相模川の遊船会でも鮎に舌鼓を打ったことでしょう。

この記事に関するお問い合わせ先 inquiry

産業文化スポーツ部 文化魅力創造課 あつぎ郷土博物館
〒243-0206
厚木市下川入1366-4
電話番号:046-225-2515
ファックス番号:046-246-3005

メールフォームによるお問い合わせ