No.59 井上篤太郎

更新日:2025年06月07日

松羅公園

松羅公園 バス停「才戸橋」下車徒歩1分

  井上 篤太郎(1859-1948)は実業家・政治家。安政6年(1859)6月13日、三田村、井上徳太郎の長男に生まれました。若い頃は自由党員として民権運動に励み、明治18年から神奈川県議会議員(3期)、さらに45年の11回総選挙では衆議院議員に当選しています。

  この間、井上は実業界へ転身、明治23年に始めた自転車製造業は失敗しましたが、明治34年の富士紡績株式会社入社が転機となります。養蚕を研究し、「絹糸紡績用原綿増収法」、「蚕繭解舒液」などの特許を持っていた井上は、これを売り込みに行きます。そこで出会った同社専務取締役・和田豊治が、井上の運命を決定したのです。その後、「玉川電鉄」取締役に就任しますが、それは和田の推薦によるものだったのです。その後、京王電気軌道の再建を託されますが、これも和田からの強い要請でした。

  井上は、森村銀行の資金援助を受け、積極的な事業計画を立て、その実現に社員一丸となって努力しました。その結果、「大正5年下半期には」、実に創立以降初めての株主配当(5分)を行った」のでした。経営は正常化したのです。井上の経営理念は、「事業は資本家、勤労者、顧客の三者によって支えられる」という「鼎足主義」、つまり三本の足が事業を支えるというものでした。

  会社再建を果たした井上は、昭和3年に取締役社長兼専務取締役に就任、10年に社長を辞任、19年に陸上交通事業調整法により東京急行電鉄に合併されるまでの30年間、京王とともに人生を送りました。

  晩年は故郷・三田に隠棲。昭和23年11月。90歳。清源院に墓があります。

  昭和10年、京王電鉄の社長を辞任する際には、退職慰労金の15%を社員のために、50%を郷里に寄付しました。三田小学校校舎、才戸橋架設資金などにつかわれました。これは、井上の「国家的の事業は国家自身の手で行えばよい。我々は郷里の発展のために尽くす。各自がそうすることによって、塵も積もれば山となるように、国家の繁栄に寄与することが出きる」という考えに基づきます。

  松羅公園に国務大臣・岡崎勝男の筆になる「井上篤太郎先生生誕之地」の碑があります。松羅公園(三田3203)は才戸橋バス停から徒歩1分に位置します。

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