No.62 大屋八十八郎

更新日:2025年06月07日

大屋八十八

創立50周年記念厚木高校絵葉書(あつぎ郷土博物館蔵)

  大屋八十八郎は、厚木中学の初代校長として、質実剛健の校風を打ち立てた人として有名ですが、実際はどのような人だったのでしょう。

  元治元年(1864)江戸で生まれた大屋は、その出自は旧岡崎藩の三河武士です。 長じては教職ひとすじ、岡山県、兵庫県、京都府などで教鞭をとり、明治35年(1902)4月、愛甲郡南毛利村(現厚木市戸室)に神奈川県立第三中学校が開校したのに伴い初代校長に就任。厚木に居を移しました。その後大正14年(1925)7月の離任に到るまでの23年間、戸室の地で若人の教育に尽力したのでした。

  40歳に満たない若さで校長に就任した大屋は、「仁愛」の大切さを説く一方で「質実剛健」の厳しい教育方針で臨みます。生徒には白木綿の風呂敷の使用を義務付け、通学に必要なものは全てこれに収めさせました。厳冬期でも外套類の着用を禁じ、黒い学生服に身を包んだ彼らが白い風呂敷を携えて戸室の坂を上る通学のさまは、蟻が白砂糖を背負って行進しているようと地域の人々の眼にも映っていたようです。

  授業では専門の英語を教えたほか、理数や漢籍にも通じていました。住まいからは大山に連なる青々とした山や川が望め、それをもって「両青」と号しました。生徒に対する厳しさは自らにも向けられ、生涯禁酒禁煙を貫くなど終始一貫していました。 また、厚木を代表する農民文学者和田傳は明治45年(1912)同校に入学し、大屋の指導を受けています。よく怒る厳しい人だと当時の作文にも記していますが、和田は小説家デビューした2年後の大正14年(1925)、大屋の長女美津氏を妻に迎えており、博物館が所蔵する和田傳関連資料のなかには両者の間で交わされた多数の書簡が残されています。そこにはかつての教え子で娘婿である和田の作品への感想や身辺雑記のほか、孫たちに寄せる深い愛情も読み取ることも出来ます。 明治大正を通し、厳しさと深い愛情をもって多くの傑物を育て上げた、厚木にとっては忘れてはならない教育者の一人です。

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