No.64 中野再五郎

更新日:2025年06月07日

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相模自動車株式会社 社印 (あつぎ郷土博物館蔵)

  中野再五郎は、厚木町助役、愛甲郡農会長、厚木消防組頭、相模自動車社長、神中鉄道取締役等を歴任し、厚木市発展の礎を築いた実業家の一人です。

  明治8年、信州上田の造り酒屋の五男として生まれた再五郎は小学校を卒業すると次兄を頼って北海道へ渡り、札幌農学校(現北海道大学)の予備校へ入学しました。わんぱくが過ぎ同校を放校処分となった再五郎でしたが、東京に戻り東京専門学校(早稲田大学の前身)で学び直します。 明治35年、縁あって中野家へ婿入りした再五郎。中野家での初仕事は、厚木町と、南毛利村・相川村の一部を対象とした耕地整理事業でした。県下で2番目という新しい事業で、反対するものもありましたが、「農は国の元なり」と説いて精力的に動きます。

  また、当時の農業が米・麦・養蚕を主とするなか、換金作物の果樹園芸に注目しミカンやナシの栽培に着手。急速な普及には至りませんでしたが、今ではナシは厚木観光の目玉となっています。

  明治末から大正に入ると厚木にも近代化の波が寄せてきます。再五郎は義父の時代に始めた運送屋を足がかりに、大正9年、現在の神奈川中央交通の前身となる相模自動車株式会社を設立。厚木―平塚を手始めに、愛甲郡愛川町、津久井郡津久井町、相模原市上溝などへのバス運行を始めました。

  昭和2年、小田急線が開通し相模厚木駅が設置されます。それまでも厚木は相模川の船便を利用した物資の集積地として栄えてきましたが、小田急の開通は東京や横浜という大都会を一気に身近にする大事業でした。が、新たに建設された駅舎は市の南を向いており、多くの住民が暮らし経済の中心でもあった北側に改札口はありませんでした。それを北側に設けることに成功したのが再五郎の手腕でした。北口開設に係る小田急からの要請は駅から旧国道246号に通じる道路を作ること。莫大な予算に計画の実行が危ぶまれるなか、再五郎は中野家の土地を真っ先に提供、関係者にも働きかけて土地を確保。建設資金にも私費を投じて小田急の要請に合う道路を作ったのです。これが今の本厚木駅前の一番街、当時は「中野道路」と呼ばれていました。また、三川合流地点の堤防上に桜樹を植え、外灯をつけて遊園地にするなど、町民の憩いの場創設にもかかわっています。

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