No.66 和田傳

更新日:2025年06月07日

和田傳

和田傳写真(あつぎ郷土博物館蔵)

厚木市名誉市民第一号にもなった和田傳は、厚木を代表する文学者です。

明治33年(1900)、愛甲郡南毛利村恩名の由緒ある地主農家の跡取り息子として生まれた和田。小学校時代には小作の子らと仲良くなり、地主と小作の暮らしぶりの違いに驚くこともあったようです。 小学校卒業後は家から程近い県立厚木中学校(現厚木高等学校)に進学。厳しくも暖かい教師に恵まれ将来は文学を志すこと決意、早稲田大学高等予科に合格します。

東京での学生生活は地方と都会の違いに気づかせ、故郷を客観的に見る目を養いました。農民のくらしに根付く倹しさと逞しさを再認識したことは、仏文科での学びにも繋がっていきます。 大学卒業の大正12年(1923)、短編「山の奥へ」が『早稲田文学』に掲載され文壇デビューを果たし、大正14(1925)年には中学時代の恩師、校長・大屋八十八郎の長女美津子を妻に迎えました。 昭和2年(1927)小田急線開通。農民文学を志すものとして田園回帰の思いも断ちがたく、さりとて厚木の生家へ帰る決断もつかず、一家は町田に転居。妻・美津子は音楽教師として新設の女学校へ通い、和田は書くものがぼつぼつ認められるようになった頃でした。

娘の梓が生まれ、梓の小学校入学を機にあつぎへ戻った和田。生家の両親は未だ地主として君臨、旧態依然としたむらのすがたに違和感を覚えた和田はむらの人々と垣根なく交わろうとします。

そうした中で描いた作品は次々と雑誌にも掲載され、作品集も出、昭和12年(1937)、土地に執着する農民を厚木を舞台に描いた『沃土』(砂子屋書房)は第一回新潮社文芸賞を受賞、芥川賞の最有力候補にもなりました。時の農林大臣有馬頼寧の知遇も得て農民文学の旗手となった和田。信州の寒村が村をあげて満州の開拓に向う過程を描いた『大日向村』は大ヒットし映画にも舞台にも紙芝居にもなりましたが、これが後にその責任を問われ禍根ともなってしまうのでした。

農地解放、民法改正による家制度の崩壊や金分相続、戦後の混乱が落ち着くにつれ和田の心を占めたのは日本各地の農業の礎を築いた名もなき篤農たちのすがたでした。全国に取材して描いた農人たちは『日本農人伝』全5巻にまとめられます。 戦後10年、厚木市誕生の頃には厚木にも新しい生活様式が入ってきます。

「家」から「人」へという価値観の変化は家族の中にも様々な歪を生みだし、さまざまな価値観を登場人物に絡めて描いた『鰯雲』は、戦後の和田を代表するヒット作となりました。東宝で当時はまだ珍しかったカラーで映画化、厚木でもロケが行われ大勢の人が見物に押し寄せたそうです。

戦後は純文学と大衆小説のあいだとされる中間小説の分野でも積極的に執筆し、晩年の大作『門と蔵』全4巻は和田文学の集大成ともいうべき作品です。

和田傳の文学碑は市内に二つあります。一つは、本厚木駅から程近い厚木中学校前の緑道、もう一つは七沢元湯玉川館の敷地内です

『和田傳短編集【令和版】』

第39回和田傳文学賞について

この記事に関するお問い合わせ先 inquiry

産業文化スポーツ部 文化魅力創造課 あつぎ郷土博物館
〒243-0206
厚木市下川入1366-4
電話番号:046-225-2515
ファックス番号:046-246-3005

メールフォームによるお問い合わせ