No.65 関野聖雲

8歳の時の作 大黒天(あつぎ郷土博物館蔵)
現在、関野聖雲の名を知る人はあまり多くないでしょうが、明治以降の木彫文化を考えるとき、その存在は彫刻家として、教育者として欠くことはできません。
明治22年(1889)、愛甲郡小鮎村上古沢で桐の木等を加工する下駄屋の長男に生まれました聖雲。本名は金太郎。はじめ「祥雲(しょううん)」と号し、間もなく「聖雲(せいうん)」と改めます。
家庭環境もあってか、幼い頃から木彫や墨絵に親しみ、金太郎が8歳の時の作品、恵比寿・大国天一対は、当博物館の所蔵されています。また、上古沢諏訪神社には鞍馬山牛若丸の図の絵馬が奉納されています。 明治38年(1905)親戚の知遇を得て高村光雲の門弟となり、翌年には東京美術学校(現東京藝術大学)木彫選科に入学し44年に卒業。在学中に制作した「白拍子」は同校の買い上げとなりました。
大正2年(1913)第3回東京勧業展覧会で技藝褒状を得て作品が宮内省御用品になったのを手始めに、毎年のように彫刻競技会で牌を受け、文部省美術展覧会では大正4年(1915)の第9回から第12回まで4回入選しています。帝国日美術院展覧会(帝展)にも第1回より出展、第2回には「力光」で特選を受賞し当代を代表する彫刻家の一人となりました。 大正10年(1921)には東京美術学校の彫刻科助教授に任命され、高村光雲のもとで木彫実習の指導に当たり、昭和7年(1932)には教授に就任。24年間という長い教鞭生活の中からは多くの作家が生まれ、厚木を代表する彫刻家難波孫次郎もこの系譜に属します。
聖雲のこの時代の大きな仕事としては、京都・浄瑠璃寺の「吉祥天像」の摸刻が挙げられます。 昭和22年(1947)、東京国立博物館講堂で行われた第3回日展審査報告会の席上で突然倒れそのまま帰らぬ人となった聖雲、あまりに劇的な幕切れでした。
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更新日:2025年06月07日