No.7 毛利季光

池谷山光福寺 バス停「光福寺前」下車徒歩2分
毛利季光(建仁2年(1202)~宝治元年(1247))は、鎌倉中期の御家人です。鎌倉幕府の重臣、大江広元の四男として生まれ、広元から毛利荘を相続して毛利氏を名乗りました。この頃、幕府の有力御家人三浦氏から義村の娘を妻に迎えたと考えられています。 鎌倉幕府3代将軍源実朝に仕え、実朝が暗殺されると西阿と号しました。承久3年(1221)に承久の乱が起きると、北条泰時に従い義父・三浦義村らとともに京都へ進軍し武功を挙げ、安芸国吉田荘(安芸高田市)を与えられました。
宝治元年6月5日(1247年7月15日)、安達景盛らが三浦泰村の館へ攻め寄せ、三浦氏との和平の道を探っていた北条時頼を巻き込み、宝治合戦が起こりました。季光は、泰時、時頼と二代に渡り信任され飛騨国守護や評定衆に任じられていたことや、娘が時頼の正室となっていたこともあり、当初、北条時頼方に味方するため出陣の準備をしていました。ところが、出陣する際に、妻から「若州(三浦泰村)を捨て、左親衛(北条時頼)の味方をすることは武士の致すところか」と説かれ、季光は三浦方に参じ、三浦一族とともに源頼朝の法華堂で自害しました。 宝治合戦では、季光の一族は「自殺・討死」しましたが、四男経光だけが越後国にあってこの難を逃れました。
毛利荘は没収されましたが、越後国佐橋荘(現在の新潟県柏崎市)と安芸国吉田荘の地頭職を安堵され、この経光から続く毛利氏の系統が後に安芸国吉田荘から戦国大名として名を馳せる毛利元就へとつながっていくことになります。
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更新日:2025年04月05日