No.28 豊臣秀吉

更新日:2025年04月05日

長徳寺

長徳寺 バス停「長沼」下車徒歩3分

 豊臣秀吉は、尾張国を支配していた織田信長に仕え立身出世し、有力家臣の1人になりました。さらに、功績をあげ長浜城の城主となり、中国地方の毛利氏を攻略の最中に本能寺の変で織田信長が自害したことを知ると、毛利輝元と和議し、急遽京都に帰りました。織田信長を自害に追いやった明智光秀を山崎の戦いで破り、信長亡き後の跡目を決める清州会議も優勢に進めました。賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り織田信長の後継者となっていきました。長久手・小牧戦いで織田・徳川軍と和議を結び、織田政権から脱却し豊臣政権を樹立しました。そして、四国平定をし、天正13年(1585)には関白となりました。天正14年(1586)には、正親町天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣となり、九州平定をなしました。

天正15年(1587)関東や東北に対して私的な戦いを禁止しましたが、小田原の北条氏がそれに従わなかったとして天正18年(1590)挙兵しました。小田原城を約3か月22万の兵により取り囲み降伏させ、北条氏政は切腹し、子の氏直は高野山へ追放しました。この時、あつぎ・おんな・及河・森の庄・讃多村・荻野村・落合郷長徳寺は豊臣方から乱暴狼藉などを禁ずる禁制をもらっています。

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