No.23 上杉定正(扇谷上杉氏)

広沢寺 バス停「広沢寺温泉入口」下車徒歩約15分
上杉定正(嘉吉3年(1443)又は、文安3年(1446)~明応3年(1494))は、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の当主で、相模国守護です。
上杉氏は、藤原氏北家勧修寺流の流れを汲む貴族の出で、重房の代に鎌倉へ下り丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉町付近)を得て武士となり、足利氏に仕えました。扇谷上杉氏は、室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父・重房を祖とし、鎌倉の扇谷に屋敷を構えたことから扇谷上杉氏の家名が興りました。
上杉禅秀の乱(応永23年(1416))では足利持氏方、永享の乱(永享10年(1438))では上杉憲実方と勝利した側につき勢力を拡大しました。 定正は、古河公方・足利成氏と山内・扇谷両上杉氏が争う享徳の乱の最中に家督を継ぎ、以後、足利成氏、長尾景春、山内上杉氏との戦いに明け暮れることになります。
長享元年(1487)、山内上杉氏と扇谷上杉氏との間で戦端が開かれると、翌年2月に相模国糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市)郊外、実蒔原で合戦が行われました。七沢城近くで起きたこの戦いは定正側が少ない兵力で扇谷上杉氏の軍勢を破り勝利しましたが、定正の兄・朝昌が守る七沢城は陥落しました。定正は、その後も山内上杉氏との戦いを続けますが、伊勢宗瑞とともに山内上杉顕定を攻めようと荒川を渡ろうとした際に落馬、それが原因で急死しました。
定正と七沢との関係は深く、広沢寺の中興開基は定正と伝わり、夫婦の墓が残されている他、徳雲寺にも定正の墓所があり、七沢城址近くの鐘ヶ嶽山中には定正の妻のものとする石碑が残されています。また、七沢観音寺の馬頭観音には定正の愛馬を供養したという伝承が残されています。 広沢寺及び定正妻の墓へは広沢寺温泉バス停、徳雲寺へは七沢城址バス停、七沢観音寺へは七沢温泉バス停が最寄りになります。
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更新日:2025年04月05日