No.22 長尾景仲

七沢城跡 バス停「七沢病院前」下車徒歩5分又は「広沢寺温泉入口」下車徒歩約6分
長尾景仲(元中5・嘉慶2年(1388)~寛正4年(1463))は、関東管領、山内上杉氏の家宰です。家宰とは、家臣のまとめ役のことです。
応永8年(1401)に家督を継ぎ、当時、家宰職にあった長尾忠政を補佐して上杉禅秀の乱(1416)、永享の乱(1438)、結城合戦(1440)を戦い抜き、功績を挙げました。上杉憲忠を関東管領に据えて山内上杉氏の家宰となり、扇谷上杉氏の家宰、太田道真(資清・道灌の父)とともに再興された鎌倉府の政務を主導しました。
鎌倉公方に永享の乱で討たれた足利持氏の遺児、成氏を、関東管領に持氏を討った上杉憲実の子、憲忠を迎えて再興された鎌倉府では、次第に鎌倉公方と関東管領との間で対立が深まり、宝徳2年(1450)に成氏と太田道真、長尾景仲との間で抗争が起きました(江之島合戦)。この抗争に敗れた景仲は、家宰職から退きますが、享徳3年(1454)12月に上杉憲忠、後任の長尾実景が討たれたことで家宰に復帰、関東に戦国時代の到来を告げる享徳の乱に身を投じていくことになります。 丹沢山地東部、相模川支流の玉川と日向川に挟まれて東向きに伸びる丘陵上の尾根に築かれた七沢城の築城主は、「関東不双の案者」(関東に並ぶ者なき知恵者)と評された長尾景仲、太田道真と伝えられ、「七沢要害」の名で初めて史料に登場しました。
江之島合戦では、上杉憲忠が立て籠もりましたが、山内、扇谷上杉氏の対立が深まっていくと、扇谷上杉氏の本拠地、糟屋館(現在の伊勢原市)の北の守りの要となりました。
七沢城の主要な遺構は、旧神奈川県七沢リハビリテーション病院脳血管センター(現・AOI七沢リハビリテーション病院)が建設された際に大部分が破壊されたといわれていますが、長享元年(1487)に起きた長享の乱で落城して以来、史料上に登場せず、北条早雲が相模中部に勢力を確立させた永正9年(1512)までには廃城、放棄されていたと思われます。
七沢城跡へは、七沢病院下バス停から徒歩3分、尾根筋の末端部や、小谷を挟んだ南側にある別の尾根に堀切や土塁などの遺構がわずかに確認できるほか、背後の高旗(たかはた)の山稜、西部の見城台(みじょうだい)にも七沢城の遺構を確認することができ、広範囲に遺構が広がる複合的な城郭であったことがうかがえます。
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更新日:2025年04月05日