No.18 高師直・師冬

役者絵 足利直義 坂東彦三郎(仮名手本忠臣蔵) 三代歌川国芳 (あつぎ郷土博物館蔵)
高師直(こう(の)もろなお)(生年不詳~正平6/観応2年(1351))は、鎌倉幕府の有力御家人の一人、足利氏の家宰を務める家に生まれた南北朝時代の武士です。
室町幕府を開いた足利尊氏・直義兄弟の側近くに仕え、尊氏が将軍に就任すると将軍家の執事となり、開創期の室町幕府を弟の師泰、猶子の師冬ら一族とともに軍事・内政両面から支えました。尊氏兄弟が対立した観応の擾乱では尊氏方に付き、劣勢となった際に出家、降伏するも直義派の武士に騙し討ちされ師泰ら一族とともに命を落としました。
師直は、『太平記』などで天皇の権威を軽んじ、神仏をも恐れない好色な人物して描かれ、江戸時代に上演された『仮名手本忠臣蔵』によって長く悪人として強く印象付けられることになりました。近年では、『太平記』から離れた検証が続けられ、室町幕府の内政機構の創始を整備に尽力した改革者として高く評価されています。
あつぎ郷土博物館には、瑞泉寺に伝わる夢窓疎石の書状のレプリカを展示しています。この書状は建武5年閏7月13日(1338年9月5日)のもので、宛先は「武蔵守」となっています。この「武蔵守」は師直のことで、執事として将軍兄弟への書状の取次ぎを行なっていました。
師冬(生年不詳~正平6/観応2年)は、師直の猶子(ゆうし・相続権を持たない養子)で、養父師直らとともに足利尊氏に仕えて功績をあげました。延元3/暦応元年(1338)に関東へ下り南朝勢力を退けると、京都へと戻りましたが、正平4/貞和5年(1349)に尊氏の四男基氏が鎌倉公方として派遣されると、幼少の基氏を上杉憲顕とともに補佐するため関東へと再度下りました。しかし、京都で尊氏・師直と直義の対立が深まってくると、師冬と憲顕も敵対するようになりました。
関東の直義方に襲撃された師冬は、基氏を連れて鎌倉を脱出しますが、現在の厚木市飯山で基氏を奪回され、甲斐国須沢城(現在の山梨県南アルプス市)へと落ち延び、そこで自害しました。飯山での師冬と憲顕との合戦は湯山事件と呼ばれています。
師直を宛先とする夢窓疎石の書状はあつぎ郷土博物館の基本展示室でみることができます。また、湯山事件の現場とされる「飯山寺」、金剛寺、長谷寺は飯山観音前バス停が最寄りとなります。
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更新日:2025年04月05日