No.43 坂東彦三郎
妙純寺 バス停「金田」下車 バス停前
厚木市金田の妙純寺に、日蓮450遠忌の享保16年(1731)、江戸歌舞伎役者四天王の一人、初代坂東彦三郎によって建碑された題目塔が存在します。その理由は、妙純寺、妙傳寺(上依知)、蓮生寺(中依知)の日蓮宗三ケ寺に伝わる「星降り」伝承を説明する必要があります。
星降りとは、『新編相模国風土記稿』によれば日蓮上人が佐渡配流の途上、「文永8(1271)年9月13日、(本間)重連の弟三郎左衛門直重宗祖日蓮を龍ノ口より当所に伴い来たり重連が邸中観音堂」に置かれた際、「其夜日蓮明月に向て法楽をなせしに、堂前の梅樹に大星降りて化益を助」けたという伝承です。この奇跡譚と江戸時代の歌舞伎役者をつなぐのは、日蓮450遠忌を記念し、享保14年(1729)に上演された江戸中村座の「日蓮上人明星名木」。妙純寺と初代彦三郎との縁はこの時に生まれたと考えられます。
この伝承が江戸庶民の間に知られるのは、星降り寺院の宝物が出展された「出開帳」の力によります。星降り寺院の出開帳は、延享2年(1745)「牛込円福寺にて、相州妙傳寺星降の梅、日蓮上人像開帳」が嚆矢。歌舞伎とのタイアップで「星降り」が注目される中での出開帳。この時、初代彦三郎は52歳、題目塔を建立した妙純寺の主催ではありませんが、日蓮宗の信仰をもつ初代は足を運んだのでしょうか。
そして、27年という短い生涯を送った二代彦三郎が18の年、宝暦9年(1759)には、浅草玉泉寺において「相州星降天拝祖師開帳」が行われました。「龍口法難」で日蓮斬首の際、折れて用をなさなかった「龍口三段折の太刀」が出展された妙純寺の出開帳。二代彦三郎もまた、熱心な日蓮宗信者。父親が題目塔を建立した妙純寺の出開帳へはきっと出向いたことでしょう。
妙純寺には寛政6年(1794)、「惣巻軸至上々吉」と役者として最高位に近い地位にあった三代彦三郎が造立した初代彦三郎の墓もあります。上方とも相州足柄ともされる出身地の初代ですが、何故この厚木に墓碑を造立したのか。また、この「元祖坂東彦三郎墓」の右側面「享保十六年辛亥九月十三日営再」は、初代の没年ではなく、題目碑の建立日、星降りの日。血のつながりがない三代にとっては、名跡元祖の役者名「坂東彦三郎」だけが大切だったのでしょうか。
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更新日:2025年05月03日