原始1

更新日:2021年04月01日

 人類が地球上に現れたのは、今から約200万年前と考えられています。その後、約1万年前までを旧石器時代と呼んでいます。

厚木市では旧石器時代の遺跡は発見されていませんが、大和市や綾瀬市では数多くあり、特に大和市では、1万3千年前くらいの赤土(ローム層)の中から、石器が発見されています。しかし、市域でも七沢、岡津古久、恩名、荻野で石器が採集されており、これから遺跡が発見される可能性はあります。

旧石器時代の人々は氷河時代という、非常に厳しい環境の中で、ナウマンゾウやヘラシカ、オオツノシカなどの食料を求めて移動生活を送っていたとみられています。

約1万年前ころになると氷河時代も終わり、しだいに温暖な気候に変化しはじめ、現在と同様な環境となり、ドングリ、クルミ、トチなどが食料となりました。こうした食料を煮ることができる土器を作りだした技術は、人々の生活や社会を豊かにしました。人々は地面を掘り込んだ竪穴住居に住み、数家族が集まった集落をつくり、生活していたと思われます。この時代は土器に施された縄目の文様から縄文時代と呼ばれています。

紀元前3世紀頃、大陸から朝鮮半島を経由して稲作農耕が伝わり、北九州の一部で始まりました。弥生時代の始まりです。農耕技術はしだいに東に伝わり、厚木においても中頃には稲作が行われていたのではないかと考えられています。現在の農業の基礎がこの時代に形作られたといえます。

稲作農耕が伝えられたのと同時に新しい道具や文化も伝わりました。鉄器や青銅器、稲の穂を刈る道具の石包丁、木材加工用の石斧類などです。また、人間の遺骸を埋葬する風習として、住居と墓の区域をはっきり分けて、再葬墓、方形周溝墓、壺棺墓などいろいろな墓制もみられます。

農耕を基盤とする弥生時代の社会では、耕地の開墾や水田の灌漑施設の整備など大規模な土木工事が必要となり、ムラの人々の共同作業によって行われました。このような中で集団労働を指揮し、ムラを統率する有力者が現れ、やがて「クニ」が形作られるようになります。

1 縄文のムラ

柄鏡形住居跡が写っている写真

柄鏡形住居跡

 獲物を追って移動生活を送っていた人々も縄文時代になるとしだいに一定の地に長期間居住するようになりました。水の便や日当たりのよい台地を選んで、数家族が生活し、ムラを形作っていたものと考えられます。林王子遺跡、恩名沖原遺跡、下依知大久根遺跡などで集落が発見されています。

ムラの中央には広場があり、共同作業や祭りの場となっていたものと考えられています。また土坑と呼ばれる穴も多くあり、墓とみられています。

及川宮ノ西遺跡

 敷石住居の内、特にこのような柄鏡の形をした住居を柄鏡形住居といいます。中央には石で囲った炉があり、張出し部分の先端には埋甕が見えます。(縄文時代中期)

2 竪穴住居と道具

有孔鍔付土器が写っている写真

有孔鍔付土器

釣手土器が写っている写真

釣手土器

 縄文時代の住居はほとんどが地面を掘り窪めた竪穴住居です。中央付近には石で囲んだものや、土器を埋めた炉が設けられています。また中期の恩名沖原などでは、家を拡充したとみられる事例が確認されており、しだいに食料の確保が安定し、人口が増加したのではないかと考えられます。また大久根遺跡では石を敷き並べた住居跡が見つかっています。

竪穴住居址の入り口とみられる部分には、土器が埋められている例があります。埋甕と呼ばれているもので、幼児を埋葬したものではないかと考えられています。子供たちにとってはまだまだ厳しい環境であったようです。

住居址内には当時使用された土器や石器などが多くみられます。土器は時期によっていろいろな文様や形があります。特に中期の土器はバラエティーにとんでおり、林王子遺跡の有孔鍔付土器や大久根遺跡の釣手土器などは珍しいものです。

石器は弓矢に用いた鏃や打製石斧、木の実を砕いたとみられる石皿や磨石などがあります。

林王子遺跡出土

 口の部分に小さな孔があり、段を持っているところからこのように呼ばれています。胴部には女性とみられる人体装飾があります。太鼓とか酒樽とかの説がありますが判然としません。(縄文時代中期)

下依知大久根遺跡

 獣油をいれて、屋内に吊して明かりとしたという説がありますが、明確ではありません。(縄文時代中期)

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