街道とあつぎ

更新日:2023年05月14日

江戸時代は封建社会のため、庶民は自由に旅をすることができないように感じますが、江戸時代中期以降は、わりと自由に旅が行われていました。村々では、講をつくって代参の形で、参詣の旅に出かけていました。厚木は大山詣の中継地として、小江戸と称されるほど賑わっていました。また、相模川を利用した舟運により、県央地域の集散場として栄えていました。

1 大山道

相州大山道田村渡の景

相州大山道田村渡之景

 江戸から大山参詣に利用した道は、東海道からの場合は柏尾通り大山道、田村通り大山道そして平塚大山道の3通りがあります。厚木に関連があるといえば柏尾通り大山道があげられます。しかし、厚木に関わりのある大山道は矢倉沢往還ではないでしょうか。東海道は幕府にとって重要な位置を占めていましたので、検問が品川に置かれていました。そのため、わずらわしさを避けるために相模地方の物産などは矢倉沢往還を利用して運ばれていました。また大山参詣路としても利用され「大山道」の道標が多く建てられ、旅行く人たちに安心感を与えていました。そのほか、厚木市内では大山に向かう道を大山街道や大山道とよび、四通八達していました。

2 御道替え 幻の”東海道・厚木宿

御道替え瓦版

御道替え瓦版

 文久2年(1862年)8月21日生麦事件がおきました。当時は攘夷論によって外国人に対する治安が悪く、前後して外国人の殺傷事件が相次ぎました。そのため、幕府は東海道を通行する大名行列、京都の使者などに危険が及んだり、あるいは重要な公務に支障が起きるようでは困るので、外国居留民が多い横浜を避けた公的な道路を考え始めていました。そこで考えられたのが、東海道の品川から平塚の間を矢倉沢往還に付け替えることです。その詮議はすぐ行われ実行に移すまでになっていたようです。残された資料によると、宿場や道幅を広げるための土地の測量まで行われていました。
「今般 東海道品川宿より平塚宿迄之間、青山通り厚木海道之方江、往還附替被仰出候ニ付、見分として来る廿六日、御勘定方被差遣、役前より出役差出候間、案内其外諸之無差支様取計もの也 亥八月廿三日(文久3年)」( 世田谷区史上巻) 

3 村の道

右下に川、畑、山、田、道と書かれ、それにより色分けされた市内の地図、林村絵図

林村絵図

 厚木市内にはどれくらいの道があるのでしょうか。市内の地図を見てみると数えるのが大変です。もちろん国道のように大きい道はわかりやすいのですが、家と家、畑などをつなぐような小道については無数といっていいほどあります。実際に村人よって常に使われる道は、このような小道が多かったはずです。街道や往還などは参詣などでつかったでしょうが、それは常のことではありません。また、街道や往還などのように大きな道は、旅案内や道中記といったもので紹介されていますが、そのように旅のために作られ、普及していたものでは、村の中の道は見ることができません。そのためには村で作られた絵図によって、当時の村の道の様子をみることができます。 

上部に太い線があり、そこからのびる細い道が描かれた、助郷に関する絵図

助郷に関する絵図

 村の道は日常的に使用する村の人たちによって管理補修されていました。簡単な補修などは自分たちの手で行い、橋のようなものは材料費をみんなで出し合って直したりしていました。ですから家と畑をつなぐ個人的な道などは自分たちで手入れを行っていました。穴が空けば砂で生め、草が生えれば抜き、堤防を固めたり、川底を浚ったりして、村の道は村によって管理され、村人によって維持されてきました。しかし、村に東海道のような街道が通っていなくても、助郷と呼ばれる非常に苦しい夫役がありました。

ワンポイント解説

助郷について

 東海道などの宿場では、大名行列や公の利用などのため人馬を用意していますが、大名行列が重なったりして用意した人馬で足りないときに村高に応じて人馬を用立てることです。厚木の村々が助郷をつとめていたのは、藤沢宿や平塚宿、大磯宿、小田原宿などです。

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