収蔵資料展30「あつぎの養蚕教師・小林升(のぼる)がいく~明治期あつぎの養蚕事情~」

更新日:2021年04月01日

あつぎの養蚕教師・小林升(のぼる)の白黒写真

養蚕教師・小林升(大正9年、第1回国勢調査記念)

第30回収蔵資料展「あつぎの養蚕教師・小林 升がいく~明治期あつぎの養蚕事情~」

  1. 本展示会は平成18年10月7日~12月10日に、郷土資料館で行われました。

厚木市郷土資料館では、市民や研究者の皆様の御協力を得て収集いたしました資料の一部を広く公開するため、収蔵資料展を開催しております。30回目となる今回は、「あつぎの養蚕教師・小林升(のぼる)が行く~明治期あつぎの養蚕事情~」をテーマに養蚕、養蚕教師に関連する資料を中心に展示いたします。
「養蚕」は、かつての厚木の主産業であっただけでなく、明治時代の国を支えた日本の基幹産業でもありました。特に明治20年前後は、地場産業としての養蚕と国策としての殖産事業との分岐点と考えられます。この大切な時期に、最新の養蚕技術を地方に伝えたのが本展示会の主人公である養蚕教師とよばれる人たちでした。この展示会では、厚木市下荻野で生まれ育った養蚕教師・小林升(=写真中央)について、その子孫である小林克也様から寄贈された資料によって、足跡を具体的に追います。
小林升は、更なる新技術の習得を望み、埼玉県の児玉郡児玉町にあった「競進社養蚕伝習所」に入所しました。競進社の新しい養蚕法が升を魅了したのでしょう。升は競進社を創設した木村九蔵の事跡をまとめた『競進社 養蚕法 養蚕実験説』という書籍の編集をしているほどです。当時の明治政府が目指した殖産興業に応えるためというだけでは説明がつかないほど、新しい養蚕技術の習得に当時の青年達は情熱を傾けたのです。
展示会では、競進社が普及させた新技術だけでなく、当時の養蚕事情についても俯瞰して考えられるようにしました。彼らがどのような技術をどこから導入し、どのように伝えたのかを紹介いたします。
時代の花形職業でもあった養蚕教師ですが、その実態については意外なことによく知られてはいません。イノベーター(革新者)であった彼らの動きを辿ることが、私たちの暮らすこの地域の文化の一端にふれる機会となり 「厚木」をより深く御理解いただくための一助となれば幸いです。
平成18年10月
木市郷土資料館

  1. 本展示会は文書資料が多くなっています。じっくりと資料を読みたい方のために資料をコピーし、ファイルしました。指定のマークがある資料は展示室で実際に読むことができます。

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