厚木の歴史の概要

更新日:2021年04月01日

公開日:2021年04月01日

厚木市の歴史をひもといてみよう

 現在『厚木市史』を編さんしています。編さんの過程でわかった厚木市の歴史について概略をまとめました。まだ完全ではありませんので、今後順次補っていきます。
 厚木市は、相模平野の中央に位置し、温暖で山・川の自然環境に恵まれ、既に9千年前の縄文時代早期には、人々が定住したと推定され、その後の弥生・古墳時代においても遺構・遺物が数多く発見されている。
 平安時代には、都から相模国府に通じる古代の道が愛甲の地を通り、愛甲郡の行政府である郡衙(郡家)が置かれていたものと考えられるが、現在まだその場所は特定できていない。
 市域の大部分が属する愛甲郡は『倭名類聚抄』では玉川郷・英那郷・印山郷・船田郷・六座郷等に分かれていたが、平安末期になるとそれまでの「倭名抄郷」が解体し、小領域の郷が成立した。市域では大住郡内の「倭名抄郷」はすべて解体し、愛甲郡も改編された。それぞれの郷には古庄郷司近藤太の様に在地の豪族が郷司に任命される例もあり、郷司という名称こそ見えないが荻野郷の荻野氏や依知郷の本間氏などの有力武士はその支配権をもって勢力を伸ばしていった。この中世の郷の大半は近世から現代まで郷名を地区名として遺している。毛利庄・愛甲庄・四宮庄・石田庄などがそれである。
 仏教の伝播を物語るものとしては、愛名宮地遺跡で瓦塔片が発掘されていることや、飯山湯気沢から出土した銅印(鋳造私印)の存在、飯山金剛寺・船子観音寺・戸田延命寺・酒井薬師堂の仏像がある。古代の市域に法相・華厳・律宗などの南都仏教及び天台・真言宗などの平安仏教が伝わっていたことがわかる。
 鎌倉時代、源頼朝には多くの愛甲武士が仕えていた。愛甲庄を本拠とした愛甲三郎季隆は射芸に秀で、調度懸(ちょうどがけ・儀式の際弓矢をもって供奉する役)をたびたび勤めていた。本間右馬允義忠は依知郷を本拠とした。本間氏では日蓮の配流事件の頃の重連が著名であるが、実際は始祖義忠の時代にその基礎が固められた。荻野景員・景継は頼朝に斬罪に処された荻野俊重の没収地を給付されていた。また、頼朝に重用された大江広元は下毛利庄を領有していた。
 頼朝没後は幕府内部の対立が激しくなり、和田義盛などの有力武士が滅亡し、愛甲郡でも幕府創業以来の中堅御家人であった愛甲氏と毛利氏が滅亡し、市域内は北条氏の支配勢力に代わった。その後、北条氏の執権政治となり、愛甲武士毛利季光・本間忠家らの活躍が見える。
 毛利季光は父大江広元から譲られ毛利庄を本貫として毛利氏を称した。季光は浄土宗に帰依し専修念仏の禁止による隆寛の遠流の際は秘計をめぐらし、隆寛を飯山に伴った。その季光も将軍派と執権派の対立による宝治合戦で自刃した。
 得宗家(北条氏嫡流家)の支配下においても荻野氏や本間氏など愛甲武士の活躍が見える。この頃、愛甲庄は足利氏の支配となり、南北朝・室町時代まで継続し、また、毛利庄は北条得宗家の支配となり、寺院へ寄進されているものもある。崇寿寺領厚木郷下方、円覚寺正続院領厚木郷上方、覚園寺領妻田・散田・荻野郷、円覚寺正続院領石田庄津奥郷や浄光明寺・称名寺・報国寺・鶴岡八幡宮・守公神社などの寺社領が設定されていた。
 鎌倉幕府滅亡後、建武新政権内においては本間忠秀などの活躍が見られる。「あつぎ」という地名が現存の史書上初めて登場するのは、南北朝期であり、建武5年(1338)夢窓疎石が、高師直にあてた書状の中に「相州厚木郷」と記されている。
 足利氏の鎌倉府設置後、本間氏等の愛甲武士は足利氏の被官となり活躍している。その後、鎌倉公方足利成氏・関東管領上杉憲忠という関東の支配体制が確立し、やがて両者は対立し、上杉憲忠は七沢に要害を構えた。扇谷上杉定正は太田道灌を糟屋館で謀殺し、関東管領家山内上杉氏と扇谷上杉氏の抗争へ進み、七沢城と糟屋館の間の実蒔原で合戦となり、山内は敗北し、七沢の確保はできなかった。七沢は相模における扇谷上杉氏の根拠地であった。
上杉の内部抗争のうちに、伊勢宗瑞(のちの北条早雲)が勢力を伸ばし永正13年(1516)相模国を制覇し、戦国大名北条五代は小田原城を拠点に支配を広げ、軍事的目的からも交通が整備され、その要衝には宿や市が開かれ、荻野の宿に六斎市が開設されてにぎわった。しかし、長尾景虎・武田信玄の関東出兵の際、市域も大きな被害を被ったことが金田建徳寺や厚木最勝寺・妻田薬師堂の記録でわかる。
 後北条氏3代北条氏康は、家臣の所領と知行貫高を把握し、普請役・軍役を課すため『北条氏所領役帳』を作成した。その中には厚木市域に所領を持つ武士の名が見える。温水には小田原衆南条右京亮・御馬廻衆伊東九郎三郎、飯山は小田原衆新田・幻庵、船子は御馬廻衆坂口喜十郎・桑原五郎左衛門、荻野は御馬廻衆松田助六郎、長谷御馬廻衆狩野大膳亮、岡田・酒井・愛甲は内藤左近将監などである。
 後北条氏が滅び、天正18年(1590)徳川家康の関東入国後、市域は旗本領、大名領及び幕府直轄領が配され、同一村内でも複数の領主によって支配され錯綜していた。江戸時代の市域に属する村は36箇村(大住郡戸田村・酒井村・岡田村・長沼村・下津古久村・上落合村、愛甲郡厚木村・戸室村・恩名村・温水村・愛名村・愛甲村・船子村・長谷村・小野村・岡津古久村・七沢村・金田村・下依知村・中依知村・関口村・山際村・猿ヶ島村・上依知村・妻田村・三田村・(下)川入村・棚沢村・林村・及川村・飯山村・上古沢村・下古沢村・下荻野村・中荻野村・上荻野村)であった。
 江戸時代になると、厚木村の方が荻野新宿に比べ宿場町、産業、生産物の交易の場として発達し、貨物は往来にあふれるほど盛況を極めた。天保2年(1831)厚木村を訪れた渡辺崋山は「厚木の盛なる都(と)ことならす」「厚木の盛なる所以は唯相模川船路便をなす」と記している(『游相日記』)。また、寛政12年(1800)、滝沢馬琴は伊豆から厚木にいたり、厚木の狂歌人と交流を持っている。厚木の商人を中心に、俳諧・狂歌・漢詩文・花道・武道などの多種多様な文化が花開いていた。
 明治4年(1871)、明治新政府による廃藩置県によって、市域に陣屋を構えていた荻野山中藩はそのまま荻野山中県となり、荻野山中陣屋に県庁が置かれた。荻野山中県は設置から4箇月で足柄県に統合され、続いて明治9年(1876)、足柄県も廃され旧相模国の地域は、神奈川県に編入された。明治11年(1878)、郡区町村編成法施行により、厚木町に愛甲郡役所が設置され、市域は大住郡・愛甲郡内の町村となり、各町村に戸長役場が置かれ、それぞれ独自の発展をして行く。
 明治22年(1889)4月1日、市制・町村制施行によって市域は厚木村・荻野村・依知村・玉川村・小鮎村・南毛利村・相川村・三田村ほか五か村組合(三田・棚沢・下川入・及川・林・妻田)となる。
 大正12年(1923)、関東大震災によって厚木町は大きな被害を受けたが、これを機に厚木町は、店舗や家並みが一新した。
 昭和2年(1927)、小田急線の新宿・小田原間の開通により、京浜方面への往来も一層活発した。昭和30年(1955)、町村合併促進法に基づき、愛甲郡厚木町、南毛利村、睦合村、小鮎村及び玉川村の1町4箇村が合併して厚木市制を施行し、更に同年7月に中郡相川村、愛甲郡依知村の2箇村を、翌31年9月には、愛甲郡荻野村を編入し厚木市が誕生した。
 昭和43年(1968)の東名高速道路厚木インターチェンジの開設は、首都圏南西部の陸上交通の要衝として、本市の産業経済に画期的な影響をもたらした。
 その後、急速な都市化の進展に伴い、道路、学校を始めとする都市基盤の整備が行われた。
 昭和50年代からは、小田急線本厚木駅周辺の整備がされ、交通利便が一層高まり、自然と調和した研究開発型企業の立地や業務サービスなどの産業も集積され、多機能を有する都市として成長した。
 昭和61年3月には、郵政省からテレトピア構想モデル都市の指定を受け、昭和62年3月建設省のインテリジェント・シティの指定都市、平成元年3月郵政省のハイビジョン・シティ構想モデル都市、平成元年4月多極分散型国土形成促進法による業務核都市となり、平成元年9月には、郵政省テレコムタウン調査対象都市に選定され、情報最先端都市として、また首都圏の拠点として発展している。
 平成14年4月には、特例市として新たな第一歩を踏み出し、平成17年2月1日に、市制50周年を迎えた。
 現在、豊かな 自然環境やまちのにぎわいなどを大切に、「元気あふれる創造性豊かな協働・交流都市 あつぎ」を将来都市像と定め、未来に向かって持続可能な発展を続け、市民一人一人の個性が輝き、明るく元気で幸せに暮らすことができる、快適で利便性の高いあつぎの創造を目指している。
参考文献 『厚木市史』中世通史編
 『厚木市史』近世資料編(3)文化文芸ほか

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