関係人物伝

更新日:2021年04月01日

公開日:2021年04月01日

尊卑分脈 寛政重修諸家譜の画像

数字は世代の順を示す

参考文献

尊卑分脈 寛政重修諸家譜

大江広元

 -おおえのひろもと- 1148年~1225年(久安四年~嘉禄元年)

 鎌倉幕府初期の重臣。父は大江維光。一説には父藤原光能、母大江維順女で、後に母の兄弟大江維光の養子になったとされています。

 仁安3年(1168年)12月縫殿頭となり、さらにるい進して承安3年(1173年)正月21日には安芸権介に任ぜられています。

 源頼朝が鎌倉幕府を開府し、武士が初めて政治を行なうに当たって、元暦元年(1184年)、朝廷の内情に精通し、法律などの知識が豊富な広元が京都から招へいされ、公文所別当職となりました。

1183年 寿永2年 4月9日従五位上に叙せられた。

1184年 元暦元年 頼朝将軍の招きにより関東に下向し、9月11日因幡守に任ぜられ、10月6日公文所の別当職に補せられた。

1185年 文治元年 4月3日正五位下に昇り、2年2月7日肥後国山本庄をたまわる。

1190年 建久2年 正月15日、前年11月に公文所から改称された政所の初代別当となる。

1199年 正治元年 12月22日大膳大夫直講師を辞し、掃部頭に任じ、又大膳大夫となる。

1216年 建保4年 正月27日陸奥守となる。同5年11月10日出家して覚阿と号する。

1225年 嘉禄元年 6月10日没す。享年78歳(尊卑分脈大江氏)

 広元には七男がありました。四男、四郎季光は広元の所領を継いで毛利氏を称するようになりました。

毛利季光

-もうりすえみつ- 1202年~1247年(建仁二年~宝治元年)

 大江広元の四男。季光は、所領相模国愛甲郡毛利庄(現在の厚木市)に居住し、「毛利」を姓とした最初の人でした。

 建保4年(1216年)12月、左近将監に任ぜられ、同5年2月8日蔵人となり、4月9日従五位下に叙せられています。建保7年(1219年)正月27日に将軍源実朝が殺害された直後、季光は出家して西阿と号しました。

 承久3年(1221年)6月には北条泰時に従い一方の大将として大軍を率いて京都を攻め、淀芋洗等の要害をやぶる戦功をたてています。

 宝治元年(1247年)6月5日、三浦若狭前司泰村が謀反を起こし鎌倉の館を襲おうとした時のことを「寛政重修諸家譜」には「季光軍兵を引率して営にまいる。季光が室は泰村が妹なり、鎧の袖をひかへていふ、今親戚のしたしみをすて、北條が権勢にくみしたまふはもののふの本意にあらずと、しきりにこれをはづかしむ。季光にはかに心変じて三浦が陣にくはゝり、終に敗軍して法華堂に入、泰村等とゝもに自害す。年四十六。」と述べています。妻の実家が三浦氏だったことから季光は三浦氏の味方をすることにしたのです。この戦いで季光とその3人の男子、広光、弟次郎蔵人入道某、三郎蔵人泰光が亡くなりました。そして毛利庄に於ける毛利氏はここに亡んだのです。

 しかし、季光の四男蔵人経光は所領が越後国にあったのでことなきを得、後にこの子孫が中国の所領安芸国吉田庄に移り住みました。

毛利経光

 -もうりつねみつ- 生没年不詳

 毛利季光の四男。宝治元年(1247年)、三浦泰村の乱の際に、父季光は乱に加わり敗北しましたが、経光は越後国刈羽郡佐橋庄南条を領し、関東を離れていたため難をのがれました。また佐橋庄のほか、安芸国吉田庄も同時に領していました。

 蔵人経光は右近将監、従五位下、入道して寂仏と号しました。これを越後の毛利氏と言います。

 文永7年(1270年)7月15日には、経光の四男、四郎時親に両庄地頭職を譲与しました。

隆寛と季光

 -りゅうかん 1148年~1227年(久安四年~安貞元年)と すえみつ-

 隆寛は鎌倉時代前期の僧で、久安4年(1148年)藤原資隆の三男として京都に生まれました。

 当時近畿一帯には、古くからある天台宗と、新しく専修念仏を唱えた法然上人の浄土宗との大きな争いがありました。隆寛は天台宗の僧でしたが、いつしか法然上人の勧める専修念仏に帰依するようになり、法然が天台宗より受ける迫害とたたかい、「南無阿弥陀仏」の伝播につとめたのと同道し、その宗門の道を開く事に力を尽くしました。

 隆寛律師は法然上人門下の諸流の内、長楽寺流の祖で、師法然上人の没後は門下の長老として京都に在りました。

 比叡山延暦寺の僧定照が、念仏の興隆をねたんで法然上人の「選択本願念仏集」を破斥するために「弾選択」を書いて隆寛のもとに送ったことに対し、隆寛は「顕選択」を書いて反論しました。定照は大いに怒って、天台宗座主真性を動かし、朝廷にざん訴して、法然上人の墓を破却し遺骸を加茂川に流そうと企てましたが、この暴挙は上人の遺弟子と六波羅探題によって阻止されました。これがいわゆる「嘉禄の大法難」です。

 こうして首謀者定照の暴挙は隆寛律師の身にもふりかかり、奥州流罪の刑となってしまいます。80歳の老律師は嘉禄3年7月6日「流人俗名山の遠里」という一介在俗の取扱いで奥州への旅に追いたてられました。この領送使の役を承ったのが毛利四郎季光でした。父大江広元も法然上人の教えに帰依し覚阿と号したように、季光もまた入道西阿と号していたほど、熱心な念仏の信者だったのです。

 鎌倉に着いた隆寛律師の教えは鎌倉幕府の中心にもすでに伝えられ、尼将軍政子、執権義時はともに念仏に深い理解もあって、律師を丁重に取り扱ったようです。

 領送使である毛利入道西阿は、あまりにも老齢である律師を奥州へ送ることにはたえられず、密かに律師の弟子、実成房を身代わりとして奥州へ送る事を計画しました。実成房としては元より依存のあるべきはずもなく、進んで師になり代わり、奥州諸所を行脚して念仏の教えを伝道したのでした。

 嘉禄3年8月1日、隆寛律師は毛利入道西阿に伴われて鎌倉の地を後にして、毛利庄飯山の地へ向かいました。入道西阿は毛利庄の領内に庵居を造営して、老師の安泰を図りました。年老いた律師はこの冬の中頃、風邪にかかり病床に臥してしまい、安貞元年12月13日数え年81歳でこの庵において永遠の眠りにつきました。

 辞世の一首 「み名をよぶ声澄む宿に入る月は、雲もかすみもさえはこそあらめ」

 厚木市飯山にある光福寺は、現在、浄土真宗の寺院ですが、『新編相模国風土記稿(しんぺんさがみのくにふどきこう)』によれば、古くは教念寺(きょうねんじ)という浄土宗の寺院で隆寛律師が開山したといわれ、境内に残る「律師の墓」が隆寛の墓と伝えられています。

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