流れゆく歴史

更新日:2021年04月01日

公開日:2021年04月01日

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毛利氏の誕生

 西国に行っても名乗り続けた「毛利」の姓。これには源氏の家臣である関東御家人としての誇りがあったようです。この「毛利」の姓を初めて名乗ったのが毛利季光(すえみつ)でした。
 季光の父親は、公家の大江広元(おおえのひろもと)。建久3年(1192年)、源頼朝が鎌倉幕府を開府し、武士が初めて政治を行うにあたり、朝廷の内情に精通し、法律などの知識が豊富な広元を京都から呼び寄せました。広元は政治の中枢を担う政所(まんどころ)の初代別当を務めるなど幕府に大きく貢献し、資源豊かな要地である「相模国毛利庄」(現在の厚木市)を領地として与えられます。広元の四男に生まれた季光は、毛利庄に居住。父親の姓であった「大江」を、「毛利」に改めたのです。

季光の戦い

 宝治元年(1247年)、鎌倉幕府は、北条氏の台頭で、揺れに揺れていました。源頼朝の時代から仕える御家人と北条氏との対立が表面化し、ついに横須賀市周辺を治めていた三浦氏が挙兵したのです(三浦氏の乱)。その渦中、人生の岐路に立たされた一人の武将がいました。厚木の地にある毛利庄(もうりのしょう)の領主・毛利季光、その人でした。
 鎌倉幕府の評定衆(ひょうじょうしゅう)を務める毛利季光は、執権・北条泰時の孫・時頼に娘を嫁がせ、北条氏と姻戚関係を結んでいました。
 しかし、季光の妻の実家が三浦氏だったことから「実家の三浦氏を捨て勢いのある北条氏に味方するのは武士の義に背く」と妻に引き止められ、三浦氏の味方をすることになったのです。
 鎌倉幕府を二分した激しい戦いの末に三浦氏は敗れ、鎌倉の法華堂で季光も一族郎党約500人と共に自害して果てます。
 娘婿、妻の実家の板挟みになり、思い悩んだ末、武士の義に生きた毛利季光。この人こそ、「毛利元就」の祖先なのです。

豪族から戦国大名へ

 三浦氏の乱に巻き込まれなかったのが、越後佐橋庄(えちごさはしのしょう)-新潟県柏崎市-と安芸吉田庄(あきよしだのしょう)-広島県吉田町-の地頭として関東を離れていた季光の四男・経光(つねみつ)でした。幕府も毛利氏を信頼し、佐橋庄と吉田庄は取り上げられず、毛利家の血筋は絶えることがなかったのです。
 建武3年(1336年)当時、経済の中心が瀬戸内海であったことなど、西の方が有利と判断し、経光の四男・時親(ときちか)が吉田庄に移り住みます。
 そして、約230年後に毛利元就が、守護大名の大内氏や尼子氏を倒し、小さな国の領主から、中国地方全域を領地とする戦国大名へのし上がっていきました。

  1. 承久3年(1221年) 広元四男季光、承久の乱で功績をあげる。
  2. 宝治元年(1247年) 季光四男経光、佐橋庄で毛利姓を継ぐ。
  3. 建武3年(1336年) 経光四男時親、吉田庄へ移る。
  4. 天正19年(1591年) 輝元、居館を広島に移す。
  5. 慶長9年(1604年) 輝元、萩城に移る。
  6. 文久3年(1863年) 敬親、萩城を去り山口へ移る。
  7. 大正5年(1916年) 防府多々良邸完成。

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