『厚木市史資料叢書』12 語り継ぐふるさと 厚木の口承文芸

更新日:2021年04月27日

公開日:2021年04月01日

厚木市史資料叢書12 語り継ぐふるさと~ 厚木の口承文芸の表紙
『厚木市史資料叢書』12 語り継ぐふるさと 厚木の口承文芸

編著者

厚木市教育委員会社会教育部文化財保護課文化財保護係 編

発行者

厚木市

発行年

平成30年3月1日

版型

A5

総ページ数

245ページ

重さ

315グラム

価格

410円(購入は、厚木市役所本庁舎3階市政情報コーナー・あつぎ郷土博物館へ)

内容

厚木市域に伝わるおもな口承文芸(文字の力を借りずに口から耳へと伝えられた文芸)を、「伝説」「昔話」「言い伝え」「古謡(わらべ唄・子守唄・作業唄・盆唱・俗謡・和讃)」の4つのジャンルに分けてまとめたものです。

「伝説」「昔話」の中から掲載の一部をご紹介します

人柱になった山伏(南毛利地区)

 天正四年(1576)といいますから、今から四百数十年も昔のことです。この年は六月初めから一ヶ月間も雨が降らないという日照り続きの年となりました。稲作にとって水は何より大切です。長谷の村でも人々は困り果てていました。そこで、村の領主・武四郎左衛門利忠は、上流の小野村にふさわしい場所を見つけ、玉川に堰を作る工事を始めました。人々もよく協力しましたが、川の流れが激しく、力を合わせて打った杭も土を詰めた俵もたちまち流されてしまいます。
 困り果てた村人たちの前に、赤い馬に乗った一人の山伏が現れました。山伏は、「私は筑波山に住む桂坊という山伏だが、村を救う堰ができず難儀しているみなの衆を救ってやろう。大山寺へ参詣後、またここに戻ってくる」といって立ち去りました。
 はたして翌日、その山伏は現れました。山伏は「私がお前達の望んでいる杭になってやろう。そうすればたちどころに堰は完成するだろう。その代わり、今後この場所へは、杭と名のつくものを決して打ってはならない」と言うが早いか、激しい流れの中に身を躍らせ、あっという間に見えなくなりました。村人たちはそれから一心不乱に工事に励みました。するとどうでしょう、山伏の言葉どおり、川の水がせき止まり、枯れかけていた長谷村の田んぼに水は流れ込み、村は干ばつから救われたのでした。
 やがて、四郎左右衛門は、この山伏の霊を自分の屋敷近くの山に祀り、「堰大明神」として長谷村の守り神としました。また、玉川の堰あとには山伏の来ていた衣を埋めた「衣塚」を建て、その徳をたたえたということです。
【出典】『あつぎ子ども風土記』

妻田の薬師と大楠(睦合地区)

 半原線のバス停「妻田薬師」でバスを下りると、すぐ西に大きな楠が見えます。そこが妻田薬師です。正しくは、西隣にある遍照院というお寺の薬師堂です。
 伝説によれば、本尊の薬師像は聖徳太子によって造られたといわれています。お堂がいつごろ建てられたのかはわかりませんが、室町時代の末には信仰を集めていたようです。
 薬師堂のある地名は、白根といいます。言い伝えによれば、良弁という僧がお堂で休んでいて夢を見ました。東の方を見ると、庭の大楠が灯籠になり、お堂は昼のように明るくなりました。良弁が身を清めようとして池の側へ行くと、一夜のうちに蓮の花が咲いて、白い根が池一面に広がりました。そこでこの地を白根と呼ぶようになったそうです。
 境内の楠は、県指定の天然記念物で、戦国時代の1569年、武田信玄が小田原を攻めた帰り道、夜中に軍を進めるためにこの木に火を付けて灯りとしたという話も伝えられています。
 また、この薬師については、源頼朝の側室丹後の局が正室・政子の嫉妬によって命を狙われた際に、局を救うという働きをしています。局の薬師如来信仰の賜であるという伝承になっています。
【出典】『あつぎ子ども風土記』『厚木の伝承と地名』

依知神社の赤城神馬(依知地区)

 平安時代の中頃のことです。平将門は、依知神社に参拝しました。ちょうど相模川が氾濫したあとでした。土手は崩れ、田畑は泥沼となり、村人は途方に暮れていました。
 将門はその様子を見ると、復興の手助けをしたいと考え、赤城山の神馬を献上しました。馬のめざましい働きで、復興は順調に進みました。喜んだ村人は、平将門と赤城山の神馬を神社に祀り、赤城明神社としました。
 時代は下って鎌倉時代、源頼朝は広大な土地をこの神社に寄進し、その子・源頼家はイチョウの木を植えました。現在、市指定天然記念物となっている二本のイチョウがそれだといわれています。昔は静かな夜に、イチョウの木が水を吸い上げる音が聞こえたと伝えられています。
【出典】『あつぎ子ども風土記』『依知歴史のこみち』

かずさどうじゃの髪の毛(相川地区)

 江戸時代、大山信仰は関東を中心に庶民の間に大きな広がりを見せました。大山へ向かう道は「大山道」と呼ばれ、行き交う人や物で賑わいました。厚木市戸田は大山道の宿場でした。
 ある時、一人の道者(大山に参詣する人)が、戸田の宿場にある一軒のお茶屋に入りました。一息入れるとまた大山目指して歩き始めましたが、どうしたことかばったりと道に倒れてしまったのです。
「おーい、大変だ、道者が倒れたぞ」
近くの村人達が駆け寄り、すぐに介抱しましたが、ぐったりして起き上がる力がないようでした。やがて道者は、苦しい息の下から「自分は上総(かずさ)(千葉県)から来た者で、大山参詣に行く途中であった」といい、たちまち息を引き取りました。
 村人たちは、ただ、かずさの道者というだけで、名前も住んでいる村も分からないまま死んでしまった旅人を善養院というお寺の隅に葬ることにし、道者の髪の毛をはさみで切り落とし、その髪の毛とはさみを一つの瓶に入れると手厚く葬ってやりました。
 やがて長い年月が過ぎ、この「かずさ道者」のことが村人達から忘れ去られようとしていたある日のこと、一人の旅人が戸田の宿場にやってきました。この人が「かずさ道者」に縁の人だと知って村人は驚きました。そして古くから言い伝えられていた場所を掘ってみると、言い伝え通り、髪の毛とはさみが出てきました。喜んだ旅人は、この髪の毛とはさみをふるさとに持ち帰ったということです。
【出典】『ふるさとのむかし話 そもさん文庫』

越中へ行った大蛇(小鮎地区)

 ある年の夏のこと、富山の薬屋が千頭(せんず)部落(厚木市飯山)を回って薬を売って歩いていました。その千頭の亀井という小部落を訪れた時、家々を回って次のような話をしていました。
 「私の国のある家に見知らぬ女中が働いていました。その家でお茶をごちそうになりながら、その女中に生国を尋ねてみました。その女中の話によると、《私は相模国の飯山村亀井という部落に住んでいた大蛇ですが、昨年の夏の小鮎川の洪水の時にその部落が被害を受け、弁天の祠も大蛇も流されてしまいました。後に海を渡り、越中国に流れ着きました。その大蛇の化身が私なのです。》」
 驚いた薬屋が、相模地方に行商中にこの飯山を訪れて尋ねると、はたして亀井の地に今も弁天様が祀られてありました。越中富山にも弁天様が祀られているそうです。
【出典】『厚木民話集 ふるさとの夢』『厚木の伝承と地名』

白狐のどくろ(荻野地区)

 上荻野に、弘法大師によって開かれたという華厳山松石寺があります。この寺に「白狐のどくろ」にまつわるお話が伝わっています。
 むかし、松石寺に白陽という立派な和尚様がいました。あるとき、寺に一人の小坊主がやってきて、和尚様の弟子になりました。小坊主は一生懸命修行に励みました。何年か経ち、小僧は宗達という名前を付けてもらいました。
 ある日、宗達は厚木村におつかいに行きましたが、その帰り道で一匹の犬に吠えられ、追いかけられました。もう少しで命を落とすところでした。
 青い顔をして寺に戻った宗達は、白陽和尚に打ち明けました。
 「実は私は、狐です。和尚様の徳を慕い、僧となって修行しましたが、今日は犬に正体を見られ、危うい目に遭いました。やはり、どんなに修行しても私たち獣には俗界を離れることは無理だと分かりました。これからは、松石寺の裏山に帰り、またもとの狐に戻ります。和尚様のご恩は決して忘れません」というと、裏山へ消えてしまいました。
 その後、裏山で白狐の亡骸が見つかりました。よく見ると手はしっかり合わされ、修行を許されたとき和尚様から渡された数珠がかかっていました。白陽和尚は、亡骸をねんごろに葬ってやりました。そして、狐のどくろを本堂において供養を続けました。また、童子の像を刻んで、在りし日の宗達の思い出としました。
 今でもこの白狐のどくろと童子の像は、松石寺の宝物となっています。
【出典】『あつぎのむかしむかし』『あつぎ子ども風土記』

本書や出典書籍の閲覧は、厚木市立中央図書館地下1階調べもののフロアを御利用ください。

【最終更新:令和2年1月】

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