あつぎの領主

更新日:2021年04月01日

公開日:2021年04月01日

江戸時代の江戸から甲斐までが載っている地図を描いた大日本早見道中記の写真

大日本早見道中記(嘉永二年)

煙が出ていて爆発によって人が飛んでいる伏見の戦争を描いた皇国一新見聞誌の写真

皇国一新見聞誌 伏見の戦争

右側に縦で「山中藩陣屋之圖」と書かれた荻野山中陣屋の絵図面の写真

荻野山中陣屋 絵図面

江戸時代において厚木市域を支配していたのは大名や旗本、代官と様々ですが、当時相模国に城や陣屋として居所を構えていたのは、小田原藩大久保氏とその支藩である荻野山中藩大久保氏の2藩にすぎません。なお、下野国烏山藩大久保氏は相模国に点在する領地を治める代官所を厚木に設置していました。

1 荻野山中藩

 荻野山中藩大久保氏は、徳川幕府の譜代藩、小田原大久保氏五代藩主加賀守忠朝の二男として生まれた教寛は、元禄11年(1698)に相模国足柄上郡などに6千石を分領され、分家し初代となりました。その後宝永3年(1706)に駿河国駿東郡富士郷の5千石を加増され、一万一千石の大名となり、さらに享保3年(1718)には大住郡、高座郡、愛甲郡などに五千石の加増をうけ、一万六千石の大名となりました。このころ、駿河国駿東郡松永村(現在の静岡県沼津市)に陣屋を構え、教寛は西の丸若年寄まで累進しています。
 二代藩主教端の時、弟教平が分家し、三千石を分領し、一万三千石の大名となり、五代長門守教翔の時、天明3年(1783)ころ相模国愛甲郡中荻野字山中に屋敷を移し、荻野山中藩に改名し明治に至っています。
 なぜ、屋敷を荻野に移したかはわかっていませんが、近世における当時の諸大名たちの経済的な圧迫は江戸詰めと参勤交代にありました。特に参勤交代はその行列の諸費用や宿泊費は藩の財政を苦しくさせるものでした。ですから荻野山中に屋敷を移すことによって経費の削減をはかったのではないかとも考えられます。

2 御陣屋焼き討ち

嘉永6年(1853)6月に三浦半島の浦賀にアメリカ軍艦4隻が来航し、幕府に開港を要求しました。翌安政元年(1854)には神奈川条約が締結され、徳川幕府の鎖国政策はここに終わります。その後、日本国内は内乱状態におちいり、慶応3年(1867)10月、徳川慶喜が大政を奉還し、12月7日朝廷は王政復古を宣言しました。しかし、武力による討幕を目標としていた討幕派は幕府を挑発していきます。そのひとつに荻野山中陣屋襲撃が含まれていました。王政復古の8日後の15日、薩摩藩邸浪士を中心とした浪士隊と、付随した庶民等およそ300人によって襲撃され、陣屋は一夜にして焼失してしまいました。この事件は武力による倒幕の発端となり、のちの鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争への遠因となりました。

ワンポイント解説

厚木を領した有名人

江戸時代を通じて、厚木市域はいろいろな大名や旗本、代官が支配していましたが、その中で歴史上有名な人物を取り上げてみました。大名として幕末には、荻野山中藩、烏山藩、佐倉藩が厚木市域で領地を持っていました。

間部詮房

6代家宣、7代家継の側用人として権力をにぎり、厚木や船子、温水などの一部を領していました。

田沼意次

9代将軍家重、10代将軍家治に仕え、老中まで累進し田沼時代とよばれほど権力をにぎり、船子や長谷などの一部を領していました。

小幡勘兵衛景憲

「甲陽軍艦」を完成させ甲州流兵学を体系づけました。中依知や山際などの一部を領し、墓所も中依知の日蓮宗蓮生寺にあります。

鳥羽・伏見の戦い

慶応4年(1868)京都南郊の鳥羽・伏見において新政府と旧幕府との間で展開され、戊辰戦争の発端となった戦闘。この戦いは京都において情勢を窺っていた徳川慶喜が主戦派を押さえいたのですが、江戸における薩摩藩の挑発にたまりかねた幕府は、慶応3年(1867)12月25日に薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちしたため、一挙に緊張が高まり、慶応4年正月3日午後5時頃戦いの火ぶたが切られました。その結果、幕府軍は破れ、戊辰戦争へと進みます。この薩摩藩の挑発工作の一つに荻野山中陣屋焼き討ちがはいります。

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