古代

更新日:2021年04月01日

公開日:2021年04月01日

 4世紀になると大和地方を中心に古代国家が成立し、天皇を中心に多くの豪族が権力の証として、巨大な古墳を造るようになります。7世紀までのおよそ400年間を古墳時代と呼んでいます。
古墳時代前期(4世紀)には割竹形木棺を埋設したとみられる下依知の吾妻坂古墳が築かれ、多量の鉄剣、鉾、鏡、櫛、玉類などが出土しました。また中期(5 世紀)には及川山ノ上古墳(方墳)や、全長約72メートルという相模では最大級の前方後円墳である船子地頭山古墳などが築かれており、この頃までには畿内と関係をもった強大な権力を有する首長がいたものと考えられます。
古墳時代後期(6~7世紀)になると、首長配下の有力な農民までが小さな古墳を造るようになり、数基まとまって古墳群を形作るようになります。依知、三田、小野、七沢、飯山などには古墳群がみられます。特に飯山の登山古墳では多くの埴輪が発見されました。また古墳時代の終わり頃には依知の台地などの崖部分を刳り抜いて墓室を造る横穴墓が多く造られるようになります。
大化の改新(645年)によって、全国の農民と土地を支配する仕組みの律令政治が始まり、農民は戸籍に登録され、土地を与えられ、税を納める義務が課せられました。こうして全国は国・郡・里(郷)という単位で分けられ、厚木は相模国の愛甲郡に属することとなりました。国・郡には国府、郡衙という役所が置かれましたが、愛甲郡の郡衙の場所は確定していません。
こうした律令政治も農民への負担が非常に厳しいものであったため、没落、逃亡する者が多くしだいに内部から崩壊していくことになります。農民の有力者や豪族はこれらの農民を集め、土地の開墾を行い、私有地として拡大していきます。これが荘園とよばれるもので、後の武士が誕生するきっかけとなるものです。

1 古墳

 市内にみられる古墳のうち、もっとも古いとみられるのが下依知吾妻坂古墳です。遺体を納めた施設は6カ所確認され、木棺を直接土中に埋納したものです。前方後円墳とみられるのは船子地頭山古墳と愛甲大塚古墳の2基です。6世紀頃に造られたとみられる、飯山の登山古墳は直径約20メートルほどの円墳ですが、市内で唯一多量の埴輪が出土した古墳です。家形埴輪、坊主頭の力士像とみられる埴輪は全国的にも珍しいものです。

吾妻坂古墳

鉄剣と鏡が出土され、鏡は鉄剣に刃を立てた状態で納められている写真

古墳の副葬品

 6個の主体部の内、第5号主体部から出土した鉄剣、鏡。鏡に鉄剣の刃を立てた状態で納められており、副葬方法を知る貴重な資料といえます。

飯山登山古墳

衣服を着ていない力士像の埴輪の写真

力士像の埴輪

 衣服がみられないことや、褌と思われる表現から力士像と考えられています。全国的にも出土例は少なく坊主頭のものは本例だけです。また足の甲の突起も特徴的ですが、何の表現かは明確ではありません。

2 ムラのくらし

 弥生時代から古墳時代の初めにかけての遺跡は子鮎川、玉川流域にみられます。また近年国道246号線の恩名周辺の低地にも多くの遺跡が確認され、居住地が広く拡大されてきた様子が窺えます。子ノ神遺跡ではこの頃の住居が多数発見され、大きな集落であったことが考えられます。一方恩名仲町遺跡など低地にも住居址は確認され、人々の生産活動の拡大とともに居住地が広がっていったものとみられます。
中期の遺跡については市内ではほとんど確認されていませんが、子ノ神遺跡で数軒発見され、貴重な資料となっています。
後期になると住居にカマドが付設されるようになり、須恵器が使用されるようになります。荻野の鳶尾遺跡、大久根遺跡、妻田中村遺跡、愛甲宮前遺跡など多くの遺跡があります。

及川中原遺跡第1号竪穴住居址

土にカマドを置いてあった跡がある写真

カマドを付設した竪穴住居

 後の時代の溝が住居の一部を壊しています。一辺約3.3メートルの方形。深さ約50センチメートル。カマドは北側の壁に設けられており、土器を重ねて煙突としている様子や石を芯として造っていることなどがよくわかります。 (平安時代)

戸室子ノ神遺跡第31号竪穴住居址出土(古墳時代後期)

様々な大きさの坪やお皿が並べてある写真

生活道具

3 公民の生活

 律令制国家の統一を図るため、都からは全国に国司が派遣され、国司は地方の豪族を郡司に任命して支配しました。国府は国司が政務を行うところですが、郡がは郡司の住居や倉庫、郡庁の建物などを含むエリアです。郡司の主な政務は穀物などの税の徴収、保管を行うことですが、穀物の保管には掘立柱の倉庫が建てられたものと思われます。
愛甲御屋敷添遺跡第5地点では7世紀後半から8世紀前半の大形掘立柱建物群がが密集して発見されており、また愛甲宮前遺跡では、皇朝十二銭の「長年大寶」(初鋳848年)や緑釉陶器の碗が出土しています。
農民は租という税を稲で納め、調という各地の特産物を平城京(奈良)まで運ぶ税もありました。厚木からは鮎などが運ばれたものとみられます。さらに国司の命令で働かされる庸・雑徭という税もありました。 

道路の横に建物が密集している写真

大形掘立柱建物群

 愛甲御屋敷添遺跡第5地点 総数200本以上に及ぶ掘立柱跡やピットが発見されました。これらは郡衙遺跡にみられる特徴と共通するものであり、多くの示唆に富んだ遺跡といえます。 (古墳時代末~奈良時代)

ワンポイント解説

皇朝十二銭

奈良時代から平安時代にかけてわが国で鋳造された12種類の銭貨。荻野の鳶尾遺跡では富寿神寶(初鋳818年)が出土しています。

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