原始2
3 稲作の開始
東日本へ稲作農耕が広まったのは、弥生時代中期(紀元前1世紀頃)とされています。戸室子ノ神遺跡では数軒の竪穴住居址が発見され、特に86号住居址からは磨石、磨製石斧とともに、3点の大形の短冊形打製石斧(石鍬)が見つかっています。この頃はまだ水田稲作が浸透せず、畑作が行われていたものと想像されます。しかしまもなく中期の後半になると、水田稲作が普及し始めたのではないかとみられ、愛名鳥山遺跡では、伐採あるいは農耕具製作に使用したとみられる、大陸系磨製石斧や石包丁様石器が発見されています。また東海地方の影響を受けたとみられる土器があり、地域間の交流が広く行われていた様子が窺えます。

石器
戸室子ノ神遺跡(弥生時代中期)

一軒の家で使用された土器
戸室子ノ神遺跡(弥生時代後期
4 墓

弥生時代には再葬墓、方形周溝墓などの墓が造られました。
再葬墓は遺骸を白骨化させ、納骨用の土器に入れて穴に埋葬するものですが、及川宮の西遺跡では7個体の土器が発見されました。また方形周溝墓は方形に溝がめぐり、溝で囲まれた中央部に埋葬施設をもつもので、妻田中村遺跡、大久根遺跡などで確認されています。

再葬墓と使用された土器
及川宮ノ西遺跡
7個の土器が発見されましたが、大きさは高さ16センチメートルの小さな甕から高さ74センチメートルの大きな壺まで様々です。日常使用された土器が転用されたようです。東海地方や東北地方の形式の土器で、他地域から持ち込まれたものとみられます。
(弥生時代前期末~中期)
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更新日:2021年04月01日
公開日:2021年04月01日