令和3年度第2回厚木市文化財保護審議会会議録

更新日:2022年03月30日

公開日:2022年03月30日

会議情報

会議主管課

文化財保護課

会議開催日時

令和4年3月7日(月曜日)午後2時00分から3時45分まで

会議開催場所

厚木市役所第二庁舎4階 教育委員会会議室

出席者

委員8人、社会教育部長、文化財保護課長、文化財保護係長、同主事、同主事補、あつぎ郷土博物学芸員、傍聴者なし

説明者

事務局(文化財保護係長、同主事、あつぎ郷土博物館学芸員)

開会

  1. 文化財保護課長

挨拶

  1. 社会教育部長挨拶
  2. 会長挨拶

案件

案件1 厚木市指定文化財の指定について(資料1・2)

・資料1・2に基づき、事務局が説明

会長 今説明があったが、厚木市指定文化財の指定についてということで、皆様に御審議いただいた有形文化財、天然記念物、これが市の指定文化財になった。皆様から何かこの件について、御意見・御質問等があれば、御発言をお願いしたい。

それでは、皆様に御協力いただいた結果、嬉しい報告となったということでよろしいか。案件1については以上とし、次に移りたい。

案件2 厚木市指定文化財の指定候補について(資料3~6)

・資料3に基づき、事務局が説明

・妙傳寺所蔵「弁財天十五童子像」現物展示

・堰神社所蔵「白尉面・黒尉面・鈴」複製展示

会長 厚木市指定文化財の指定候補について、これから詳細を御説明いただく。今、広げられているのが、弁財天十五童子像の現物である。上依知の妙傳寺の所蔵である。それでは、先に少し説明を受けてから御覧いただいた方がより細かいところまで分かるため、委員に説明をお願いしたい。

弁財天十五童子像について(資料4)

委員 それでは、弁財天十五童子像について説明させていただく。

指定候補一覧のところでは弁財天十五童子図となっているが、慣例では、弁財天十五童子像の方が、一般的かもしれない。まだ候補段階であるため、後ほど検討させていただきたいと思うが、私は調書としては、弁財天十五童子像と書かせていただいた。

それから、この弁財天のザイの字について、財宝の財を用いるか、或いは最初の奈良時代に金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)で使われたような才能・天才の才を用いるかという2説あるが、中世以降になると財宝の財が用いられる。財宝の財を使う背景には、弁財天が鍵と宝珠を持つようになり、これが福徳神的な要素を強くしていき、これにより、一般的には財宝の財の方を使用するようになってきているようである。しかし、指定名称としては、どちらを取るかは、その作品の制作年によってばらつきがある。今回はこちらの財宝の財を取らせていただいた。後から見ていただくが、裱背にも、表具をした時の墨書銘があり、それがこちらの財宝の財を使っているため、それを尊重して、このようにさせていただいた。

また、本紙は、かなり目の粗い絹本となっており、縦80.7センチ、横が34.7センチである。後で実物を見ていただければ分かるが、これは中幅のものである。

裱背墨書銘として、妙傳寺の三十三世によって「弁財天七福神十五童子」と書かれているが、(本紙に)七福神は描かれていない。その中で描かれているのは、毘沙門天と大黒天、この二天のみである。さらに、「星梅山 表具 三十三世 日應代」と続くが、三十三世日應は、妙傳寺の歴史を見ていくと、再興してから、さらに、妙傳寺の隆盛を招くような非常に活躍した方で、この時に二天門を作られたり、その扁額を書いたりしている人物である。

「琢磨法眼筆 弁財天女画像 四十六代日誠表具修覆」とあるが、この方は明治の方である。なので、近世ではなく近代に入ってもう一度、再修復しているという記事が載っている。この琢磨法眼だが、おそらく天川弁財天等を描いている絵師である。南都(奈良)系の絵師の中に琢磨を使う絵師がいる。この弁財天そのものが宇賀神と習合して、天川信仰とも関連してくるので、単に思いつきというと失礼だが、何かの根拠があって、琢磨法眼っていう言葉を使ったとは思わない。これは伝承の域を出ないということになる。

この作品を所蔵しているのが、厚木の上依知に所在する妙傳寺というお寺で、星梅山という言葉から分かるように、日蓮星降りの伝承が厚木に三か寺あり、その中の一つに当たる。寺伝と『新編相模国風土記稿』によると、弘安元年、本間重連を開基檀越とし、開祖日蓮、開山は厳誉院日源である。本寺は、千葉の中山法華経寺で、この中山法華経寺は、江戸時代の寛文期、不受不施派の問題があった時に、身池(しんち)対論といって、身延山と池上本門寺の間で代表者を出して不受不施派でいくか、それとも幕府の政策にある程度順応して進むか、で論争が行われた。結果として、不受不施派が敗れるという形になった。その時、妙傳寺の二十二世が不受不施派を宣言してしまったので、一時期、弾圧を受けて廃寺になった。それを復興したのが、寛文5年である。水戸の穏井山高在院妙徳寺というところから一心院日遙が入寺して、二十三世となる。しかし、この穏井山高在院妙徳寺で一心院がどういう立場にあったかに関しては、はっきりした資料を得ていない。ただし、この穏井山高在院妙徳寺が、水戸にある古刹の一つで、身延山に日蓮が入った時に、波木井(はきい)氏がバックアップしたようであり、その息子が穏井に、分家してというわけではないが、移り建てたお寺である点は興味深い。そこから来たということは、日蓮宗関係のお寺として、身延山そして、水戸公(徳川頼房)というのは、徳川家康の側室であるお万の方が生んだので、日蓮宗系に対して非常に力入れのある大名であり、バックにもしかしたらそういう力もあったかもしれない。いずれにしても、この穏井山高在院から日遙が入り、復興したとされている。

妙傳寺には、独尊堂というのがあり、そこに非常に立派な丈六の釈迦如来像がある。それから指定されているものとして、二天門があり、こちらは、丈六釈迦像の脇侍であったのではないかと寺伝で伝えられている毘沙門天と持国天の二天が入っている。その二天の彫刻の中から木札が出てきたという記録があり、(その記録では、)木札に元禄10年の墨書銘と日遙が喜捨・奉納したとある。これが指定理由としても挙げられているが、この日遙は、過去帳を復刻したと言われるお寺の記録だと、元禄9年に亡くなっており、そこに齟齬が生じてしまう。妙傳寺に問合わせていただいたが、木札はお像の中に戻されており、その時の木札の写真が見つからない。あくまでも記録ということになるが、元禄10年では没年の1年後ということになってしまっている。過去帳というのも整理した時に、写し間違い等が生じることもあるため、元禄期につくられたということに関しては、彫刻史の様式的な視点から見ても、そこには問題はないと思われる。そういう関係を持っている二天門を再興したのも、裱背にある三十三世日應であり、その二天門に星梅山という扁額があるが、それをお書きになったのも日應である。この日應が、非常に学識豊かな日蓮宗のお坊さんで、千葉の飯高壇(いいたかだん)(りん)等で学んだ後に最終的に身延山に入っているようである。お寺としても、身延山に貫首(かんじゅ)として入るというのは非常に誇らしいことであり、そう簡単に入れるものではないので、かなり力を持った学僧だったと思われる。また、非常に独特の書体で、表具銘が二つある中で、日應の書体はすごく癖がある。曼荼羅を書いて奉納するということも頼まれており、かなり力を持った人であったと思われる。つまり、この三十三世日應の代に復興期から上り坂になって、妙傳寺は非常に力が充実していたということが分かる。

次に図様の説明に移るが、弁財天(弁才天)というのは、大きく分けると三つある。まず1つ目として、金光明最勝王経、古代においては八臂像である。ただし、これは持物が鍵とか宝珠のような福徳的なものではなくて、武将神としての性格が非常に強く現れているものである。つまり、武器を持っている。二つ目が、二天二臂(にてんにひ)妙音(みょうおん)弁才天という音楽・芸術の方に注目をした図像であり、手が二本で大体琵琶を弾いている。これがまた別系統になる。三つ目、最終的に本作品に関わってくるのが、「仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経」という日本で作られた偽経、弁財天五部経というのが中世に作られる。そこを起点として、非常に複雑な弁財天の図様が出てくる。この時代というのは、弁財天が大黒天と習合したほか、宇賀神のような日本の神様と習合してしまい、本当に様々なものが重層的に習合を繰り返した時代である。本作においても、弁財天の頭部に注目していただくと、ここに翁相の白い蛇がおり、これが宇賀神を象徴している。それから、周りに十五童子という、「仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経」に描かれる十五人の童子が、脇を固めている。ここまでは基本形だが、本作の場合は、それ以外に、一番上に日輪と月輪が描かれていて、さらに毘沙門天と大黒天が描かれている。大黒天や毘沙門天に関しても、複雑で、弁財天が吉祥天と習合し合ったりしている。また、吉祥天と大黒天の仲が良く、そのため二神が入ってくる。それ以外に、最もこの作品の特色として挙げたいものが、二体の像が小さく入っている点である。一つが束帯の男性で、ペアとなる唐装の女性、それが小さく描かれている。これが一体何を意味するかが、明確には解き明かされておらず、画像の中に書かれる作品も少ない。一つ提案だが、かなり古い作品のなかに聖天(しょうてん)を描いているものがある。聖天は、顔が二つ、男女の合体像であるが、そういったものとの関連も予測できる。ただし、男女宮、つまり双子宮である。十二宮の中の男性神と女性神がペアになっているものもある。この時代は本当に様々なものが重層的に入っているため、そういった意味でもこの作品は非常に面白い。

次に、図様上で、つまり、図像とは別に特色となるのが、弁財天十五童子像は最近よく所在を確認できるが、座像が圧倒的に多い。それに対してこれは立像である。比較的古い作品に立像が多くなっている。それからこの宇賀神を付けているのは普通だが、宇賀神の上に、本像の場合は鳥居を描いている。この鳥居はある場合と無い場合があり、薄井先生にお聞きしたところ、彫刻作品ではしっかり鳥居をつけているが、絵画は、付ける場合と付けない場合がある。これが大体の概要である。

絹目が非常に粗いので、裱背にあるような、日應の代、江戸時代中期に書かれたものではなくて、日應は元々あった作品を表装したか、或いは表装し直した。また、制作は室町、16世紀まで遡るのではないかと思われる。図様も、江戸時代に、パターン化されたものではなくて、非常に柔らかみがあり、顔つき、筆も大らかなものである。そのため、固さがないということで室町まで遡るのではないかと思われる。

最後に、何故、弁財天十五童子像が日蓮宗系のお寺にあるかという問題だが、日蓮宗の守護神というのは、鬼子母神、鬼子母神十羅刹女、三十番神、大黒天も途中から入ってくる。それが主だが、実は江戸時代になって、圧倒的な人気を得てくる七面天女というものがある。七面天女は身延山のお隣にある七面山に祀られた女神である。それが、身延山の力が強くなってきた辺り、身延山の参詣が盛んになり、それから七面山に先ほど申し上げた徳川家康の側室のお万の方が、普通そういう聖地は女人禁制であるにも関わらず、七面山には参詣している。そういったことがあって、七面天女信仰が江戸時代に盛んになっていく。もともと七面山では修験系の信仰があったのではないかと言われているが、それが日蓮宗に取り込まれて、人気を博すのは江戸以降である。そうした中にあって、『身延鑑』という身延山の伝承をまとめたものが、江戸時代に出てくるが、その中に七面天女の伝承の一つに、厳島明神に弁財天を勧請しているというような話が出てきて、もともと七面天女=吉祥天女=弁財天という様々な習合現象が出てきているため、そういった盛り上がりの中で、この七面天女と直接的な関係は無いが、「弁財天十五童子像」が妙傳寺に所蔵されることとなったのではないか。しかも、この日應は、「弁財天七福神十五童子」と裱背に書いている。七面天女信仰の中にはその七にかけて、七難を避ける、七福を与えるというようなそういう付随的な話が、福徳神として魅力をアピールするようなところもある。そういった関係で、大事に表具がされていたのではないかと思われる。これはあくまでも推論の域を出ないが、そういった意味でもまだまだ、この作品からは、解き明かしていくと面白い問題が出てくるのではないかと思われる。

そういった美術史的な観点と同時に厚木の宗教史を考える部分でも、妙傳寺というお寺が、日蓮宗の中の一つの流れ、江戸期における一つの流れ、つまり不受不施派とかそういうものが鎮圧されていき、ある種徳川政権にとってやりやすい方向になり、寺社制度が確立していく流れの中に組み込まれていくということが一つ。妙傳寺というお寺が、サバイバルしていく中で、どういう近世を過ごしていたかということ、それから、もう既に指定されている資料との関連も見ていくことが出来るので、そういった総合的な観点から、文化財の指定候補として挙げた。

会長 それでは、実物を御覧になっていただきたい。

「弁財天十五童子像」現物確認

会長 (この二体は)男女神のようである。

委員 金沢文庫の展覧会でも個人所蔵の資料として、男女神が描かれていたものなど、いくつか取り込まれている作品がある。

また、図様的に見ると、中心線に置いているということは、左右対称形に、画面を整理しようという意識はあったものと思われる。

会長 江の島関係のものは、皆、宇賀神と鳥居が付いているが、近世の(絵画の)立像は無い。

委員 (立像であるため)やはり室町のものではないかと思われる。

会長 確かに、室町でいいのではないか。

委員 そもそも十五童子とは何か。

委員 日本で作られた偽経であるため、十六童子というものもある。童子信仰というものが中世に広まっていく、神様と人間、或いは高僧と人間を取り持つ、本資料で言うと眷属である。図様としては、釈迦三尊十六善神などから影響を受けているように思われる。

会長 これは財宝の財が適していると思われる。

委員 鍵を持っているため、確実である。

会長 これが妙傳寺に伝わっているのは不思議である。どこかから持ってきたのか。

委員 やはり、一つは、復興した穏井山が身延と関わりがあった、もう一つは、寺伝では丈六の釈迦如来をバックアップしたのは水戸公とあるように、相当のパトロンがいたからではないかと推察される。

会長 しかし、これは修理しないといけない。

委員 その通り修理も必要である。

会長 実際の作品を生で御覧いただいたが、さらに何かあるか。大変素晴らしいものだが、候補として審議を重ねていくため、委員にはさらに深いところを研究していただきたい。

それでは、資料5に移りたい。

白尉面・黒尉面・鈴について(資料5・6)

事務局 委員に御説明いただいた方がよろしいかと思うが、委員の御論考を基に調書を作成させていただいた。資料5を読ませていただくと、名称及び員数、白尉面・黒尉面・鈴ということで、鈴の方は2点になっており、全部で4点ということになる。

文化財の種類としては、有形文化財、民俗ということになる。

所在地は、厚木市長谷1611番地所在の堰神社ということになるが、実際には総代が保管されている。

構造や法量については、資料6に、このレプリカを作った際の報告書を載せてあるため、こちらを御覧いただきたい。ほぼ原寸大でレプリカを作っている。

所見としては、白尉・黒尉面及び鈴というのが、江戸時代の安永年間、1172年から81年に、長谷の観音堂の庫裡が焼失した時に、この3点だけが焼け残ったという伝承がある。最新の『厚木市史 民俗編2』では、当該資料について、阿波・淡路系の人形芝居に必ず付随するものと記してあり、長谷座の伝承で300年ほど前に淡路の人形遣いが伝えたという由緒とも繋がるものとされる。

また、箱に収め、開演時に楽屋の一部に神棚を設け祀っていたということも伝えられている。白尉面、黒尉面につきましては、人形の式三番についての古記録はほとんどないとされている。というのも、相模人形芝居が国の指定となった時、永田衡吉先生の『日本の人形芝居』に、ほとんど古記録が無く、中世後期の手傀儡が猿楽を演じていた中で式舞として式三番演じられることは当然あっただろうということが書いてある。淡路人形芝居の式三番というのは、能の翁・千歳・三番叟が移されたものということである。淡路人形芝居の人形座では、三番叟は二人遣いで遣っているということで、委員も、長谷座の三番叟も二人遣いで特徴的な演じ方が伝承されているということを図録の方でお書きになっていらっしゃった。肝心の人形式三番叟の成立について、大谷津先生の論文によると、主となりつつあった娯楽的な部分というのが、歌舞伎に押されるようになり、そういった中で能狂言の式三番叟の形式を取り入れることで、人形による宗教行為が盛んになったとある。人形の再興策というような対策のために取り入れられたのではないかというふうに推論されている。先ほどから申し上げているように、厚木市の民俗芸能を考察する上で価値があるということと、国指定の重要無形民俗文化財である相模人形芝居の歴史を伝える上で、有形のものとして貴重な原資料だと、文化財指定に相応しいものではないかと思う。未調査事項としては、最新の知見がカバーできていないため、委員から補足していただきたい。

会長 それでは、委員からも御説明をお願いしたい。

委員 結構だと思うが、スタンスを考えなければいけないないような近年の知見もあり、内容については相談をさせていただきたい。

未発表の研究ノートだが、今月出るものだと、この三番叟について、淡路との関連を永田衡吉などは指摘をしていて、それを信じていたが、伊豆の方の資料で見ると、300年前に関係があったことは否定するものではないが、江戸から買ってきて、それを継承していたという記事も出てきているので、中身に関しては相談させていただきたい。

また、白尉面・黒尉面だけではなく、いわゆる芝居の演目を演じる、いわゆる鉄砲差しの(かしら)をどういう位置付けにするか、今後市として、どういった考えで保存するか、そういった考えがあるのかないのか。これだけ取り上げてしまうと、そちらが埋もれてしまうというところもあり、その辺りのところも少し相談させていただきたいと考えている。

事務局 今残っている首の中で鉄砲差しのものがあれば、前回会議で委員から御指摘いただいたように保存して、資料として指定していく必要があるのかもしれないが、よく相談出来ていない。現状では、鉄砲差しで演じることはほとんどないが、それは資料として保存・継承していく方が良いという考えでよろしいか。

委員 鉄砲差しを矯正した歴史がある首がある。ここにしかない。それは大変珍しいため、保存する必要があると考えている。

事務局 今は、鉄砲差しはやらないから鉄砲差しじゃない形に直して遣うってことはよくない。つまり、その鉄砲差しの形式が残っているものはそのままにするということか。

委員 そういった矯正した形式が残っているものはやっぱり残していくべきである。それを含めて、人形の用具類として考えていただく。それについては相談させていただきたい。

事務局 無形民俗文化財ではない、有形の民俗文化財として、保存していく必要があるため考えていきたい。

会長 いずれにせよ指定候補であることに間違い無いので、その中でどういう納め方、どういう置き方をするかということについては、今後検討した上で、指定までの間に、整理をしていただきたい。

事務局 本日はレプリカを用意したので、御覧いただきながら、再度委員に御説明いただきたい。

「白尉面・黒尉面・鈴」複製確認

事務局 これは人形の首に付けて、演じるものか。

委員 淡路では、能と同じように実際に付ける。外したり付けたりするが、三番叟には矛盾があり、目が返ったり舌が出たりといった仕掛けが面を付けると見えなくなる。おそらく、後からこの三番叟の形式が入ったのではないかと言われている。元は、目が返ったり舌が出たりという呪術的な人形であったのが、面を付けることで格を上げるようになったのではないかと思われる。

委員 持物(鈴)は面とペアとなるものか。

委員 その通り、ペアである。能と同じく、白尉面のもどきが黒尉面である。

事務局 民俗芸能の道具について、文化財としての取扱いが統一されていない。相模人形芝居の道具が重要であることを示すため、本資料を先行して指定すべきかと考えていたが、どのように考えるべきか。

委員 これだけ突出してしまうと、相模人形芝居の特徴が伝わらない。相模人形芝居の指定理由が鉄砲差しにあるため、そこに沿った指定がいいのではないかと考える。五座(四市)で一番特徴があるのが、こちら(厚木市)である。なお、五座で一緒に指定というのも想定される。

事務局 有形民俗の指定として、国や県指定もあり得るのか。

委員 県指定レベルであれば想定出来る。

事務局 他市には鉄砲差しを矯正した首は無いのか。

委員 下中座にも西川伊左衛門に関する首はあるが、鉄砲差しを矯正したものはない。矯正しているものも大変貴重である。

事務局 座では、受け継いできたものを遣っていきたいとの思いがある。一括での指定は御理解いただくのに非常に時間が掛かる可能性がある。

委員 受け継いできたものを遣いたいという思いは、勿論お持ちだとは思う。どの座も世代交代の時期であるため、過去を整える必要がある。

事務局 指定の時期や方法など改めて御相談させていただきたい。

会長 他に質問等は何あるか。無いようであれば、白尉面・黒尉面・鈴に関しては以上とする。

指定文化財候補一覧(資料3)について

会長 それでは、資料3指定候補一覧の中で、この網かけになっている部分についてお願いしたい。この絵画の2と、それから彫刻の1、2とあるが、この中の絵画2、中依知の蓮生寺の仏涅槃図について佐伯先生から簡単に御紹介をお願いしたい。

委員 以前にも御紹介させていただいたが、この蓮生寺というお寺も先ほどの候補にあった妙傳寺と同じ星降り伝説の中の三ヶ寺の一つである。

狩野惟信(これのぶ)という、狩野派、江戸時代に中後期に活躍した絵師が描いた作品で非常に出来栄えが良いため是非指定したい。

『大和文華』にこれの細かい紹介・論説を発表させていただいた。

作品見ていただくと、画面の右横の方に、「中務卿養川法眼藤原惟信筆」と非常に整った書体で書いている。こういった落款・印章の場合でも、作品により書体や使う言葉、画号は様々だが、これは非常にかしこまった、正式の署名である。その下の印章に関しても、間違いない作品である。普通、江戸時代に入ると、定型的な涅槃、版本で作られたような涅槃図か、或いは非常に雑なものもあり、それなりに面白味はあるが、図様が崩れてしまう。涅槃図は、特定の厳しい図像的な規制が無いため、江戸時代にバリエーションが増えていく。その中でも正統的な涅槃図で、尚且つ、水墨主体になっていて、しかも金泥を使っている非常に品のいい涅槃図であるので、江戸時代における狩野派の正統的な涅槃図として、価値があるということが一つ。

それから、既に遠近感的な新しい要素を狩野派が取り入れているということの証明にもなる。兎に角、狩野派は否定的に見られていて、もう金科玉条のように、粉本主義で、前の図様を取り入れていると言われているが、狩野派の中でいち早く空気感等新しい傾向を取り入れているということが一つ。

さらに、この作品は、そういった新しいものを取り入れると同時に、惟信における古典研究も証明している。それはどういうことかというと、木挽町狩野は、非常に将軍家の覚えがめでたくて、色々と将軍がアドバイスをしたり、特に歴代の中でも、八代将軍であるとか、それから寛政期の将軍であるとか、その時代になってくると、古典を大事にしようということを結構言っている。この図様は、室町時代の狩野元信、つまり古法眼といって、狩野派が非常に大事にした狩野派の基本になるアカデミックな図様を確立した、狩野派の全盛期を迎える狩野永徳の祖父に当たる元信が描いたと言われている京都の絵巻があるが、絵巻の中の一場面に御釈迦様の涅槃図が出てきており、そこから図様をヒントに取り入れている。つまり、非常に新しいものを生み出すために、古典をもう一度徹底的に研究するということが狩野派によって行われていた、それから、新しい要素を入れているという意味で、江戸時代の狩野派を研究する上でも重要な作品ということになるかと思われる。

それからもう一つ、先ほどの妙傳寺とも関連するが、江戸時代になると、今でいう聖地巡礼のようなものが盛んになってきて、厚木の三ヶ所を廻る、身延に行く、或いは身延から帰ってくる、そのような旅日記が出てくる。これは神奈川県立博物館で行われた鎌倉の日蓮展というところで、望月先生がお書きになっているが、その中を見ていくと、この蓮生寺や妙傳寺、妙純寺を廻っているようである。さらに、これが書かれた少し前に、日蓮の遠忌があり、その盛り上がりの中で行われていたようである。狩野派の絵師で、しかも直系の木挽町の御用絵師の作品を書くということは、非常にコストがかかる。ということは、この時代に、この蓮生寺が非常に高揚していた。しかも、この狩野派は、歴代、先程出てきていた池上本門寺に墓石がある。この中に惟信の墓石もある。探幽ももちろんあるが、その関係で狩野派は日蓮宗の作品、非常によく描いている。

さらに、これの前に、鎌倉の円覚寺でも、惟信とその父が、十六羅漢の補修をしているようである。そういったもので、古い時代の図様も研究しており、羅漢図からの研究もこの中に入っているということである。つまり古典研究、それから模写を通しての、近県にある良い作品の研究、さらに新しい要素を入れているということで、この作品は是非指定したいと考えている。

会長 今参考資料の4ページ目を見ていただいたが、その後ろに、2種類彫刻の写真が入っている。これに一言ずつ、コメントを付けたい。

金田の建徳寺の彫刻で、一つは木造地蔵菩薩立像である。これは非常にスラッとした長身の像である。鎌倉の覚園寺に黒地蔵として有名な、地蔵菩薩立像があるが、同じような長身のプロポーションを持っていて、あれを簡素にしたような印象があるかと思う。この地蔵菩薩立像は覚園寺蔵のものと比べると非常に形式的で、簡略化されているが、全体のスタイルとしては、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての、御像のスタイルをとっている。首の下のところにU字型に線が見えるが、その位置で差首になっており、前に調査した時に、首を抜いて、御像の中の状態を見たが、中世の御像の構造というのがよく分かる作品である。厚木には確か地蔵菩薩で古いものは少ないと思う。その中では、飛び抜けて作も良く、指定候補として相応しいと考えている。

それから同じ建徳寺の大興禅師だが、見て分かるように、禅宗における頂相彫刻のスタイルをとった典型的な作品である。建徳寺の開山の大興禅師葦航道然の像であると伝えられてきたものだが、銘は無い。そのため、像主を確定っていうわけにはなかなかいかないが、寺伝に従って言うならば、大興禅師ということになろうかと思う。大興禅師は建長寺を開いた大覚禅師蘭渓道隆の門下、大覚派のお坊さんであり、建長寺の高僧である。禅の流れの中でも正当で、鎌倉の中でも禅宗史に残るお坊さんである。確か横浜の金沢区釜利谷東光禅寺、これが有名なお寺ある。釜利谷東光禅寺の開山も、この大興禅師がしている。あまり名前知っている人は多くはないが、いわゆる禅宗史の中でメジャーな方である。作品は頂相でも寿像といって、生前に作られた像ではなくて、大きさもちょっと小さい。寿像の場合はほとんど等身大で作るため、それによると小さな構造で、何回忌かに作っているかもしれない。しかしながら、非常に正統的な、頂相彫刻の形式を踏むものであり、おそらくは鎌倉仏師による、造像ではないかと推定できるものである。鎌倉ではこの手の御像が結構あるが、鎌倉から離れると、ぐっと数が少なくなり、厚木市内では、中世に遡る頂相彫刻は多分これだけだと思うので、市の指定という方向で検討していくには、大変相応しいのではないかと思う。

それでは、今、参考資料の図版にあるものの説明についてまで終わったが、これまでのところで、何か追加でも結構だが、御質問・御意見等があれば、御発言をお願いしたい。

厚木は、本当に指定候補になるものが、山積みになっているということで、市民の方にも何らかの形で御紹介し、大変豊かなところであるということをアピールしていただきたい。

事務局 蓮生寺所蔵の涅槃図は随分前から指定候補で挙げられているが、指定に向けた進め方について、御相談させていただきたい。以前の会議でも御報告させていただいたとおり、資料の表装の状態が良くないため、修復に係る財団助成を申請したが、不採択となってしまった。修復の目途が立たないという状態になっている。指定については、お寺に同意もいただいているが、修復せずに現状のままで指定を進めてよろしいものかどうかというところをお伺いしたい。

次に、建徳寺の彫刻について、現在、事情により建徳寺は建長寺の預かりになっている。宗教的な実務については、海老名の定国寺で代行されているが、実態としては無住の状態になっている。また地元の方にお話伺ったところ、檀家総代さんを通じて、本山の方に話を持っていくのはいいのではないかという話もある。資料としての評価が高いため、進めたいと思うが、無住の状況で進めるのはいかがか。

会長 進められるものから前に進めていくようお願いしたい。それでは、厚木市指定文化財指定候補については以上とする。

案件3 指定文化財の保存修理等について(資料7)

・資料7に基づき、事務局が説明

会長 それでは、この保存修理等についての報告に対して何か質問・意見等はあるか。委員から何かあるか。

委員 本禅寺本堂について、日蓮宗の本堂は厚木市内にたくさんあるが、その中では一番古くて、県内でも2番目と思われる。鎌倉に長勝寺というお寺があるが、あの法華堂が室町の終わり頃であるから、それに次いで古いのが本禅寺本堂ということになる。そのため大変貴重なものである。今回は耐震補強工事ということで、大体半解体ぐらいの工事をしているが、最初の状態に戻すという工事ではない。実際に使っている本堂であるため、御住職の方の御意向、出来るだけ使いやすい形で残したいということもある。例えば、外陣を畳敷にするという話があったが、元は板敷だったものである。内陣の奥の須弥壇についても、今は来迎柱の後ろにあるが、本当は来迎柱の前にあったはずである。しかし、柱の前に持ってきてしまうと、狭くなってしまう、使い勝手が悪いということで、これもそのままになっている。そういう意味では現状補強に近い形になっている。7月に竣工したら、是非御覧になっていただきたいと思う。

委員 (文化財保護審議会の)委員も見に行く機会はあるか。

事務局 タイミングに問題がなければ御覧いただきたい。

会長 他に何かあるか。最後に、全体通して、或いは情報提供があればお願いしたい。それでは、事務局にお返しする。

その他

あつぎ郷土博物館の事業について

・チラシに基づき事務局が説明

地域展「地域再発見! 1 厚木地域~家康・芸妓・ヨシゴイ~」

会期:令和4年3月26日(土曜日)から6月26日(日曜日)まで

 

閉会

  1. 職務代理者挨拶

関連ファイル

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